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あるヒロインが輝かしく立ち居振る舞う物語に陰翳をつけようとすれば、その主人公と対比をなす存在を作品に放り込むのが得策です。たとえば陸上競技に励む主人公を描くとして、ヒロインの等速で単調な日々の練習の積み重ねを読者に絶対評価させるよりも、シューズを隠してその足を引っ張ったり、陰で糸を引いて彼女が総スカン食らうような不利益を生じさせたりする存在があったほうが、ヒロインのがんばりにも相対性や加速度が生まれ、より実感ある形で読者に伝えられるからです。そうしたこともあり、児童文学や少女漫画には、ヒロインにネチネチと意地悪をする敵役の少女が登場し、これがアンチヒロインのひとつの型となっています。が、陰険ないじめが常套手段の憎まれっ子はヒロインの引き立て役でしかなく、ステレオタイプを脱するのはなかなかの難題。“お約束”な展開もひとつのスタイルとして歓迎されるテレビドラマなどでは、いまもこの種のアンチヒロインが活躍しますが、「型」と書いたように、実際のところこの役どころはとうのむかしに手垢まみれになったといえるでしょう。
そうしたなか、漫画界に一閃の光が走ります。少女漫画を侮るなかれ、70年代から第一線で活躍する漫画家・一条ゆかりが、2007年に文化庁メディア芸術祭の優秀賞を受賞する作品『プライド』(連載開始は2002年〜)で、ヒロインいじめのアンチヒロインとして極めて新鮮なキャラクターを産み出したのです。本作が登場するまで、児童文学や少女漫画の世界の型としては、心まっすぐなヒロインは貧しく、このヒロインにからむアンチヒロインは資産家令嬢と相場が決まっていました。しかし一条はこの作品で、このオーソドックスな構図に巧妙な複雑化を試みました。高慢な資産家令嬢を没落させてヒロインに設定し、貧しい少女を嫉妬とのし上がる執念に燃えるアンチヒロインとして相対させたのです。世間から踏みにじられるアンチヒロインが、没落はしてもプライドは高いヒロインに怨念を抱き恐ろしい企みを巡らすのですから、これはもう……凄まじい迫力と存在感。この複雑化させた逆転の発想は、手の内を明かされれば、ああその手もあったよねと無理なく頷けるいっぽう、一条の『プライド』が出るまでは誰も思いつかなかった実用新案的な発明といえるでしょう。逆転の発想から生まれたこの一件は、物語作家を目指す者にとっておおいにヒントとなるところがあるのではないでしょうか。
娼婦もまたアンチヒロインとして作品をかきまわすいい役者です。それもそのはず、娼婦文学の歴史は古いものですが、実はアンチヒロインの原型は「娼婦」に端を発しているのです。その劈頭(へきとう:物事の最初)を飾るのがアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』。マノン・レスコーは正確にはヒロインであり娼婦ではありませんが、天性の娼婦のごとき手管に長け、生来の娼婦とは実は「女神」のことをいうのではないかと思わせるほどに、奔放な性と天真爛漫な姿態で主人公のグリューに天国と地獄を味わわせます。そもそもマノンは修道女になろうとしていたのですから、この神を嘲笑うかのような転身は、聖職者であったプレヴォ―の冷笑的な悟りを思わせます。
小説をはじめ映画にもドラマにも漫画にも、いまや肉体的魅力に富んだファム・ファタールは数多の作品に登場しますが、この天啓をまず文学界にもたらしたのがプレヴォ―のマノンでした。「昼は淑女、夜は娼婦」が男の理想云々の話がもち上がることがままありますが、『マノン・レスコー』が発表される1731年以前に、娼婦という存在に対してこの種の視点はなく、娼婦役が男たちを破滅させる重要な役どころを務めることもなければ、マノンのような女性が主体として描かれることもありませんでした。つまりアベ・プレヴォ―は、『マノン・レスコー』で新たなアンチヒロイン像の創造主のひとりとなったというわけです。
“NEW娼婦像”をアンチヒロインとして世に鮮烈に送り出したのがプレヴォ―だとすれば、世間がひれ伏す高みに上ろうと手練手管を駆使するアンチヒロイン像に、スッと人間味をひと刷毛してリアリティを倍増させたのはウィリアム・サッカリーです。その作品は1847年発表の『虚栄の市』。舞台は19世紀初めのロンドン、虚飾と欲望に満ち満ちた上流社会の象徴としてアンチヒロインが描かれています。彼女の名はベッキー。画家の父、踊り子の母のもと貧しい境遇に生まれたベッキーは、上流階級にのし上がるその一念でえげつないまでの手管を弄し人々を利用し、みごと野望を遂げるも最後には破滅します。ともすると憎々し気なアンチヒロイン像の典型を思わせますが、ベッキーには根っからの悪女と切って捨てられない不思議な人間味を感じさせる部分があります。それは『虚栄の市』のもうひとりの主役、アミーリアというヒロインとの関係において見られます。『虚栄の市』は、強欲なベッキーと裕福な家に生まれながらも没落したアミーリアの対照的な半生を追う作品ですが、富むも貧しくも清く正しいアミーリアに対し、性悪のベッキーは散々な意地悪を仕掛けます。でも、それだけではないんですね。辟易するほどのベッキーらしさが全開に描かれるいっぽうで、彼女はアミーリアからの贈り物をずっと大事にしていたりするのです。このなんとも人間味あるネジレた心のヒダ、その複雑な模様――。これをベッキーの本質と言わずしてなんと呼べばいいでしょうか。ベッキーは自身でも気づかぬうちに、アミーリアを最後の心のよりどころとしていたのではないでしょうか。ところで余談ですが、このふたりの関係とキャラクター造形は何かを思い出させませんか? そう、『風と共に去りぬ』のスカーレットとメラニーです。『風と――』の作者マーガレット・ミッチェルはひょっとすると……。往年の名作にこうした類似点を見出すことも、旧作を繙く愉しみのひとつでもあります。
さて、古典を通してアンチヒロイン像を検証してきましたが、現代の日本にも興味深いアンチヒロイン像を生み出した作家がいます。それは角田光代。直木賞をはじめ、国内の名だたる文学賞をひととおり受賞してきた彼女による2012年の著、『月と雷』から一節を引くことにします。
『月と雷』のアンチヒロインである直子は主人公・智の母。誰が父だかわからぬままに智を生み落とし、母親業になぞ一切の関心はなく、子には食事はおろか食事代わりの小銭も渡さず駄菓子を与える始末。その暮らしぶりがあらたまる気配はまるでなく、男から男へと渡り歩く根なし草の生活をつづけ、自分の行いでどこの誰がそれがたとえ息子だろうが、不幸になろうといっかな気にも留めません。智は、そんな母とともに居ついた家の娘・泰子と、やがて不確かな男女関係を結びます。ストーリーは智親子によって人生を狂わされた(と信じる)泰子の迷い葛藤する歩みを丹念に辿ります。この物語に深い陰翳と不思議な情感をもたらすのは、問い詰めてくる泰子の言葉を歯牙にもかけない直子という奇妙なアンチヒロインの姿なのでした。
「直子さん、いつから直子さんは直子さんだったと思う? いつからそんなふうなんだと思う?(中略)」
「あんたね、何かがはじまったらもう、終わるってこと、ないの。直子だろうが直子じゃなかろうが、(中略)はじまったらあとはどんなふうにしてもそこを切り抜けなきゃなんないってこと、そしてね、あんた、どんなふうにしたって切り抜けられるものなんだよ、なんとでもなるもんなんだよ」
(角田光代著『月と雷』中央公論新社/2012年)
直子がその眼に宿す虚無とは、もしかすると生きていくための強さではないか――『月と雷』はそんな人間の性(さが)への感慨を深めるアンチヒロインが綾をなす一作です。
小説を書くなら、アンチヒロインを典型的な準主役に終わらせては惜しまれます。「アンチ」+「ヒロイン」と、キャッチーな言葉が連なっているだけに単純明快な「ヤなヤツ」を描けば主人公と対立の構図も生まれちょうどいい――と筆も滑りがちですがそれは甘い罠。星の数の先例があることを忘れてはなりません。本稿で挙げたいくつかの例のように、物語に新風を吹き込み、鮮烈なコントラストを生む立役者となるのがアンチヒロインの本領なのです。新たなアンチヒロイン像の可能性はいわば無限、そのヒントは既存作品以外にもさまざまなところで見出だせるはずです。たとえばそう……ひょっとするとあなたのすぐ近くにも。ご近所や学校、職場など、人間関係が生まれる場所なら、必ずやひとりやふたりの――。
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