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王朝歌人が謳う「はかなさ」の美

2021年11月29日 【詩を書く】

1000年のむかし、「はかなさ」は新たな意味をまとった

はかなきは恋することのつたなさの昔も今もことならぬこと

(与謝野晶子『夏より秋へ』/金尾文淵堂/1914年)

木の間なる染井吉野(そめゐよしの)の白ほどのはかなき命抱く春かな

(与謝野晶子『白櫻集』/改造社/1942年)

「はかなさ」という無常なる風情をこう詠ったのは、いわずと知れた情熱の歌人、与謝野晶子です。そんな明治・大正のむかしから、色の失せた葉がはらりと落ちる様子、命短い蝶がひらひらと舞う姿に「ああ、はかないな……」と詩的な感慨にほんのひととき別世界を揺蕩(たゆた)う心地を得る私たち日本人は、「はかなさ」が美しさを伴うものだという意識をごく当たり前にもちあわせているといえるでしょう。いや逆に、美しさには常に「はかなさ」がつきまとうと見るべきか──。けれどじつをいえば、王朝文化が花開き雅やかな歌詠みが盛んであったそのむかしには、清少納言が『枕草子』に「九月二十日あまりのほど、初瀬に詣でて、いとはかなき家にとまりたりしに」と綴っているように、「はかない」は「小さい」「粗末な」「弱々しい」といった形容詞的使用にまだ留まっていました。学校の古文の授業で、先生がちょっと得意げにこの「はかない」の古文的意味を説くのを思い出した方もいるのではないでしょうか。ところが清少納言の時代からときを経ずして、「はかなさ」がひとつの美であるという意識が生まれ、いつしか歌のみならず文学全般において底流となっていきます。平安から100余年ののち、出家した吉田兼好は、ものごとは常ならず移り変わるからこそ美しいのだ、とその悟りの境地を『徒然草』にしたためています。そして江戸時代後期には、本居宣長が「はかなさ」の美意識を包括する「もののあはれ」の思想を提唱するに至りました。

さてこうなりますと、美を説く「文学の世界」に留まらず、現代の私たちが蝉の抜け殻を無下に踏み潰したりせずそっと掌に載せ、そのいたいけな7日間の命に涙する感性をもちあわせたのも、王朝文学のこうした意識変革のおかげということができます。そうまさに、「はかなさ」のなかの美の発見は、文学的、人間情緒的に計り知れない価値をもたらす快挙であったといえましょう。

「はかなさ」がまとう美意識の源流

いまを遡ること1000余年、「はかなさ」に美の方向を示したのは誰あろう、平安時代中期の歌人・和泉式部でした。いにしえの世、この天性の歌人の心になぜ「はかなさ」がかように深く宿ることとなったのか、それを探るには式部の生の背景を知る必要があります。和泉式部の歌才は早くから世間に聞こえていましたが、いっぽうでは「浮かれ女」──現代でいうなら「浮気女」──と不品行の風評がまことしやかに流れていました。無論事実の断定はできないにせよ、そこに彼女の才能やモテぶりへのやっかみがなかったとはいえません。「文(ふみ)」が男女の仲をとりもった時代のこと、稀代の才女の当意即妙にして色香漂う送り文が、相手の関心を強烈なまでに惹きつけたことは推して知れます。しかも文によって火の点いた恋がそのまま男女の仲となっていっそう燃え盛るわけですから、式部は人柄や容貌もまた男心を捕らえる女性であったのでしょう。ところが、彼女は死別を運命づけられた人でもありました。女童として仕えた内親王の死、恋人であったふたりの皇子の死──式部はそれら大きな悲劇にわずかな月日のあいだに見舞われたのでした。

夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。

(和泉式部『和泉式部日記』/岩波書店/1981年)

こう書き起こされる『和泉式部日記』は、和泉式部がときの天皇・冷泉帝の第四皇子・敦道親王(帥宮)との恋の日々を描いた日記文学です。帥宮は式部の恋人であった為尊親王の同母弟。ふたりの恋は、帥宮が兄の死後、式部の近況を気遣って文を送ったことからはじまります。おそらく式部の想いは、為尊親王に対するそれより深まったと想像されるのですが、その恋の日々は3年にも満たず、帥宮の死によって終わります。『和泉式部日記』は恋の華やぎのなかで書かれた作品ではありません。帥宮の死後、深い悲嘆のなかでふたりの相聞歌を寄り添わせるように綴って、恋を偲んだ鎮魂の物語だったのです。

作家の生き方を知ることでその言葉の意はより深くなる

帥宮の死後、式部は再び宮中に出仕し、再婚もして別の人生を歩んでいくことになります。しかし、哀切な死の運命はなおも式部の上に影を落とします。母の歌才を受け継いだひとり娘・小式部内侍が20代の若さで世を去るのです。

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり

(『後拾遺和歌集』1075 - 1086年)

赤子を残して逝った娘は誰に心を残したことか、きっと子どもでしょう、子を亡くした私がこんなに嘆き悲しんでいるのだから──。娘への哀傷を詠った和泉式部。その晩年の動向や死が後世に伝えられることはありませんでした。

暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月

(『拾遺和歌集』1005 - 1007年)

和泉式部のこの歌は、拾遺和歌集に選歌されていますから、式部がまだ若い時分の作ということになります。──迷いと苦しみの暗闇からもっと暗い道へと歩んでいこうとしている自分、山の端に昇る月よ、どうかその道を照らしてほしい──そう願った若い日のこの歌を、晩年の式部はより深い思いを込めて詠唱したのではないでしょうか。

言葉の新しい意味が文学の未来を拓く

一気に時代を超えて1980年代、俵万智は『サラダ記念日』(河出書房新社)に「さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園」という歌を収録していますが、この一首には「はかなさ」を描く現代的な感覚があるといえるでしょう。詩を書く、歌を詠むというとき、私たちはもちろん既存の語句を用います。けれど、既存の語句を既存の意味や感覚のままただ用いて終わるということについては、確かな意識をもたなければならないでしょう。詩語に、言葉の表現に、命を吹き込み、あるいは新しい光によって輝きを与えることは、詩人そして歌人の仕事であり、永遠の課題であるのですから。

「弱々しい」「ちっぽけな」「心許ない」という意味で用いられていた「はかなさ」に、恋と歌に命を燃やしながら、後年の“わび・さび”の美意識へとつづく日本的な情緒を見出した和泉式部。詩を書くにも歌を詠むにも、また物語を書くにも、要するに作家になりたいと文学を志すすべての者は、彼女のつけた道筋と柔軟で鋭敏な感性が示す教えを忘れてはならないでしょう。開明の志は、きっと、あなたの創作の道に新たな光を当ててくれるはず。そう信じます。

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