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モダニストに学ぶ“詩人”の眼と心

2016年08月09日 【詩を書く】

“見る” “感じる”をあらためて考える

詩を書きたい、詩人になりたい、という気もちを抱く人は少なくないようです。小説などに比べて詩の作品は短く、技術や緻密な計算はさして必要ない――と考える向きもあるらしく、気軽に詩作を楽しむ人も多いようです。もちろんそれ自体は悪いことではありません。しかし、詩人になりたい、詩を認められたいというあなたであれば、詩作の姿勢についてあらためて考えてみることも大切です。辞書を引くと、「詩」とは「人間生活・自然観照から得た感動を一種のリズムを持つ言語形式で表したもの」とあります。が、うれしい、苦しい、美しいといった感情表現を、いくら軽快なリズムに乗せて並べようとも、詩と呼ぶにはおぼつかないシロモノしかできあがらないことは明白です。つまり、鑑賞に値する詩を書くためには、“人間生活”や“自然観照”をどのように見、感じるかが重要になってくるわけです。純然たる詩語として言葉を磨きあげるためには、眼も心も研ぎ澄まさなければならないということなのでしょう。

優れた詩であっても鑑賞の仕方はひとつではない

日本近代詩における先駆者、モダニストとして、揺るがぬ地位を確立した西脇順三郎。その詩はしばしば難解であるといわれますが、決して晦渋な詩句が用いられているわけではなく、感覚的な斬新さ、独創性に満ち満ちているがゆえに達した玄妙ともいえます。ですから、違う見方をすれば、彼の詩を観賞することは、物事を感じ詩的に表現するための訓練になるともいえます。そもそも、詩というものは鑑賞する人によってさまざまな解釈も成り立ち得るもので、またそれでよいのでしょう。読む人の心が何をどう感じとるかによって、おのずと詩の景色は変化していくのですから。ただ、それはあくまで細部の解釈であって、人の心を揺さぶる力をもつ詩は、その力にはっきりした源があるということなので、受け取り手に共通するひとつの鮮やかなイメージというものは存在するはずです。

次に挙げるのは、西脇順三郎のごく短い詩『天気』です。

『天気』
(覆された宝石)のやうな朝
何人が戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日
(西脇順三郎『Ambarvalia』所収/恒文社[復刻版]/1994年)

「覆された宝石」が( )で括られているのは、このフレーズがイギリスの詩人ジョン・キーツの詩の引用だからで、それをここで用いるとおもしろいと思ったと作者は言っています。しかし、この詩を鑑賞するのにそうした知識がいるか、というとそんなことはまったくありません。「神の生誕の月」という表現からは、「何人が戸口にて誰かとさゝやく」という情景にもギリシア神話世界がイメージされてきますが、そのような既存のイメージに囚われる必要もないのです。ただこの詩では、宝石が覆されたように、にわかに輝きだした圧倒的な朝のイメージを感じ取ればよいのでしょう。そのイメージを捉えたら、2行目は清新な朝の世界でのさざめきのように思われてきますし、「神の生誕の日」はまたとない素晴らしい朝の訪れを印象づけるものとなってくるでしょう。詩を鑑賞することとは、知識に頼ったり、額にしわ寄せて言葉の意味を考えたりすることではなく、そのように詩語が生起するイメージを、心ゆったりと、あるいは直感的に自分のものにすることではないでしょうか。

“もの”を見て生まれてくる思考が“詩”になる

また、西脇順三郎は詩の作法についてこんなことを随筆に書いています。いわく、たとえば、茄子を見て、ああこれは紫色の瓢箪だという思考が生まれたとする。このとき、茄子は詩の対象ではない。紫色の瓢箪という思考をつくることが詩の対象となる。紫の瓢箪、という思考をつくっていくと、音が生まれ、茄子も瓢箪も超えたものがごろりと表れてくる。そしてそれは、茄子ではなくなったかに見えて、じつは茄子なのだ――。

この言葉を目からウロコが落ちると見るか、逆にややこしいワイと腹を立てるかは、受け取り手次第ということになるかもしれません。けれども、少なくとも詩を書きたい、詩人になりたいと思うあなたであるならば、じっくりと咀嚼する価値のある言葉であると受け止められるのではないでしょうか。現代詩の巨匠が、より優れた詩を書くための貴重な指南を授けてくれるかもしれません。

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