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上の画像をご覧ください。下半分の相貌しか映っていませんが、これがいったい誰であるかは、小説家になろうという方なら一目でおわかりになるはず。見ずとも網膜には、この上半分が描き出されているのではないでしょうか。そう、『人間失格』太宰治です。それにしても、こんなにも頬杖が似合う人はなかなかいませんね。試しにGoogleで「頬杖」と画像検索してみると、無数の素材画像モデルたちに交じり、やはり太宰はしっかり結果ページに登場してきます。虚空を眺める力のない瞳は、いったい何を憂えているのでしょう。今回はそんな太宰治を、これまでの3倍味わい深く愉しむ方法をお伝えします。読み方を変えると、書き方も変わる。これから小説を書こうと思っているなら、今回は必読の記事です。
戦前・戦後の昭和を代表する小説家、太宰治。自殺未遂を繰り返し、薬物中毒に侵され、放蕩は数知れず、ついには愛人との心中という形で38年の生涯に幕を下ろした彼は、さまざまな角度から評される、当時もいまも“特別な位置”にある作家といえます。数多の熱烈な信者が存在するいっぽう、芥川賞がほしいと、当時の選考委員であった佐藤春夫にしつこくねだった太宰を、「女々しい」「プライドがない」と考える人も当然います。人間性を自嘲する彼の態度には激しい屈折が表れていて、いくつもの滅びの物語を書きましたが、主人公がもち合わせる“破滅的個性”の突き抜け具合は、ときにユーモアさえ感じるほどです。
しかし太宰治とは、実際どのような作家であったのでしょう。その小説の本質とはいったい何なのでしょう。もちろん、ひとりの人間やその全人生を賭した作品群を、容易に解き明かすことはできません。けれども、彼の実像の、たとえ片鱗だとしても掴めるのだとすれば、それは、太宰作品を読むうえで非常に重要であると考えられます。なぜなら、太宰治こそは、小説を書くためだけに生きた人間のように思えるからです。
民俗学者・国文学者で歌人の折口信夫は、太宰治と直接面識はありませんでしたが、共通する友人を通してこの作家を知るうちに、その危うい繊細さに気づき、いつしか「友」と呼ぶほどの親愛を抱きはじめたようです。太宰の入水自殺後には、遺作の解説として作品分析を試みた追悼文を寄せています。それは、感傷的な震えを帯びた文面には不釣り合いなほど、鋭く、洞察に富んだ一文でした。
太宰君の文學者としての生活を見ると、いつか作物の上の生活が、世間の生活から、ぐんと岐れて行つてしまつてゐる。自分だけ守る生活といふものを、極度に信じた事から、たゞ一途に、自分の文學を追求して行つた。謂はゞ、筆は生活追求の爲に使はれてゐた。さうして段々、深みに這入りこんだ彼だつた。私などは、それに氣のつくことが遲かつた。斜陽の「新潮」にのりかけたのを見て、はじめて太宰君が何に苦しんでゐるか、といふことをおほよそ知つたくらゐのものである。現實の出發に先じて、虚構が出發してゐたのである。虚構といふと、とりわけ誤解がありさうな作物だから、文學が先に出てゐると言ひ替へてもよい。平易に、文學的作爲と言ふやうな語をつかつてもよい。斜陽の現實よりも、斜陽の虚構の方が先に發足してゐる。さうして展開する虚構の後を追つて、現實が裏打ちをして廻った。
(『水中の友』/『折口信夫全集 第27巻』所載/中央公論社/1968年)
一面識もなかった太宰の作品を読み、いつもその「清き憂い」に心拭われるような思いを抱いてきたという折口に、太宰の死は大きな衝撃をもたらしました。折口は太宰の死を、小説を書くために時間も頭脳も健康も費やした彼が、ついに現実の世界から飛び出していってしまった結果と考察します。まず小説から出発し、その虚構の世界を裏づけるように現実世界での経験が重ねられた太宰にとって、実生活とは、文学のための「生活の実験」であったというのです。しかし彼には、虚構を征服するだけの肉体的な強靭さと世人としての経験が足りなかった、それゆえに戻れないところまで行ってしまった、そう折口は綴るのでした。現実世界での創作のための実践―――それは、文学の申し子太宰治にとって、たとえ命を削っても欠くべからざるものであったのかもしれません。
1938年、井伏鱒二の紹介で太宰の後妻となった津島美知子は、結婚生活10年、夫の死後50年を生き、ただ1冊の本『回想の太宰治』を著しました。その著書のなかで彼女は、太宰との結婚には相当の覚悟をもって臨んだと明かしています。覚悟とは、太宰の無軌道な生き方やスキャンダルにではなく、芸術家の妻になることに対する覚悟でした。事実美知子は、その後の太宰の行状にも一風変わった結婚生活にも動じる様子を見せず、本書においては、稀に見る鮮やかな記憶力を発揮して、彼女だけが知る太宰治の姿を冷静に淡々と再現しました。この作品には、高名な作家の知られざる像が血肉をもって描き出されているのです。
太宰はほんとうに無趣味な人であった。趣味は遊びだ、逃避だ、と考えていたようだ。身の回りに、あってもなくてもよいものを置くことが嫌いで、必需品だけを、それも趣味よりも、機能だけで選んだ品だけを置いて簡素に暮らしたいらしかった。
来客との話は文学か、美術の世界に限られていて、隣人と天気の挨拶を交すことも不得手なのである。ましてこのような行商人との応酬など一番苦手で、出会いのはじめから平静を失っている。
「蛇がこわい」といって宿にこもり、酒ばかり飲んでいる。これでは蓼科に来た甲斐がない。この人にとって「自然」あるいは「風景」は、何なのだろう。おのれの心象風景の中にのみ生きているのだろうか――
(津島美知子『回想の太宰治』講談社/2008年)
『回想の太宰治』が浮き彫りにしていくのは、小説を書くこと以外に何の興味も抱かず、不器用と呼ぶのでは生易しい、日常の暮らしになす術もなく立ち尽くす「作家」の姿でした。このような家庭生活を営むいっぽうで、太宰は美知子の姿を幾たびも自作のなかに描き込んでいきます。生活のなかから妻をモデルに据えるというシチュエーションを毎度毎度小説に取り込みながらも、完成して見せるのはまるで異なるシークエンス。それが太宰という作家の本性であるとしても、夫の日ごろの無様さを知る美知子にとって、太宰の冷徹な眼と滑らかな饒舌は「矛盾」として映り、その相容れがたい側面を内在させている人格そのものに、“小説家の業”を見た気もしたのではないでしょうか。芸術家の妻として、その覚悟を終生まっとうした美知子。彼女の著書は、破滅的宿命と天賦の才が、ひとりの人間「太宰治」のなかに静かに収斂していくような、そんな感慨を抱かせます。
吉行淳之介は太宰を「一度は関わらなくてはすまない作家」と位置づけています。また星新一は、彼の筆致について「書けそうでいて書けない、根の深い個性を感じさせる文章」と評しています。要するに太宰治という作家は、作家になりたい、小説家を目指すという者ならばなおさら、通り一遍ではなく、奥深いところまで読み込む価値のある逸材といえるのではないでしょうか。太宰自身、「私は、私の作品と共に生きている。私は、いつでも、言いたい事は、作品の中で言っている。他に言いたい事は無い」(『もの思う葦』新潮社/1980年)と記しているとおり、読み手に作家の真の言葉を伝えてくれるのが“小説”です。多様な冠を頂に称される太宰治。ある日あるとき、あなたが太宰作品のなかに発見するものは、作家になるためのひとつの指標を示してくれるに違いありません。太宰の神髄に触れることができたと感じたならば、それはすなわち、あなたが「本物」を書けるようになった証といえるのかもしれません。
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