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小説家になるためには、「人間」を描くスキルや洞察力を会得しなくてはなりません。しかし、人間を描く――とは、言うは易くとも実践するのは並々ならず難しいもの。ひと口に洞察力といっても、これを身につけるのにはどうすればよいのでしょうか。人生経験、もちろんそれは無関係ではないとしても、徒に経験を重ねただけの人生から洞察が生まれるはずはありません。いっぽう年若く実経験が少なくても、洞察力を備えた者はもちろんいます。そこで、この公式を読み解くひとつのキーワードが登場します。それは、作家になりたいあなたが人間の描き方を学ぶためのキーワード「無頼派」です。
近現代の文壇にはさまざまな流派があり、時代の流れや世相、欧米の文学傾向に関わっていたりもするので、知識を網羅するのは少々面倒です。自然主義とか白樺派とか新感覚派とか、作品を読む上では無用の情報じゃないか、とつい思ったりもします。けれど、そうしたなかで思わず引き寄せられてしまうのが、「無頼派」というただならぬ呼び名の作家たち。「無頼」とは寄る辺ない無法者のこと。世間の慣習や決まりごとに縛られず自由に荒くれに振る舞うというのは、やはり規範のなかで生きる者にとって憧憬を抱く部分があるものです。
しかし、文壇でいう「無頼派」は、無軌道な生き方をする作家のことでも、無頼漢を主人公とした小説のことでもありません。文壇シーンにおける由緒正しき「無頼派」とは、既成文学のスタイル、従来のイデオロギーや道徳観に反発する姿勢で小説を書いた戦後の作家たちのこと。太宰治、織田作之助、坂口安吾らが代表格として挙げられますが、早世した太宰や織田に比べると、坂口安吾には、たとえ血反吐を吐き泥の中をのたうっても、書くべきことは書くという逞しさが印象としてあります。同じく無頼派に数えられる檀一雄は、著書『太宰と安吾』のなかで坂口安吾との出会いについて、「私の生涯の出来事で、この人との邂逅ほど、重大なことはほかにない」と語っています。そんなふうにどこかメンター的風格を漂わせる安吾の作品のなかで、「無頼派」の本質的精神や思考について教えてくれるのが、『堕落論』です。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(中略)人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦(また)堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
(『堕落論』/『坂口安吾全集14』所収/筑摩書房/1990年)
『堕落論』において安吾は、本質的に「堕ちる」のが人間であるが、正しく堕ち抜く強さをもち得ないのもまた人間であると語っています。みずから堕ち抜くことができないから、戦争に負けたから堕ちた、家が没落したから堕ちた、誰かに裏切られたから堕ちた、政治が駄目だから堕ちたと理由をつけるが、そうではないと指摘したのでした。安吾の表現には、ある面粗暴さもありますが、“堕ち方”を誤る人間の弱さや、ほかに原因を求めたがる性質を深く鋭くえぐっているのは間違いないでしょう。
『堕落論』をはじめとする安吾の仕事から理解できるように、また破滅的な短い人生に膨大な数の著作を残した太宰や織田を見ても知れるように、「無頼派」とは人間の本質に命を削るような勢いで迫っていった作家たちでもありました。現代においても、反逆精神と自己を含めた人間批判精神をもち、社会の現実や人間の本然を深く捉えようとする目を保ちつづけることは、作家を志す者にとってとても重要な姿勢に違いありません。ですが、人間の本然とは、いかにすれば捉えることができるのでしょう――そのひとつの方法こそが、人間の「堕落」を考えることなのです。ただしここには、アマチュア作家が肝に銘じるべき眼目があります。「堕落」と「病的な心性」を峻別しなくてはならない、ということです。
例文を挙げましょう。下記は、世のなかを憎む若者を主人公に、弱者を虐げる社会の姿を描こうとしたという小説の一節です。
僕の心には殺意もない。憎しみも、絶望もない。ただ、すべてを燃やして、焼き払って、野原のようにだだっ広くなったところに虹が架かる、美しい風景が脳裏に浮かんでいて、それが見たくて見たくてたまらないのだった。そこで死んでいくかもしれない人たちは、その世にも美しい風景のいけにえのようなものだった。
これで人間の「堕落」を描いたと放言してしまっては「無頼派」の名折れのそしりを免れません。それに、この程度の主人公を通してでは、普遍的テーマは伝えられそうにもありません。なぜならここには、人間の本然を捉えた「堕落」など何ひとつなく、主人公の「僕」はただ救いがたく病んだ心をもつに過ぎないからです。――とまあ、サンプルを手厳しく採点してみましたが、人ごとと聞き流してはなりません。とかくアマチュア作家にあっては、社会的・精神的病質を、社会や人間の堕ちゆく末の産物と見る物語があまりに多いのです。「堕ちる」とは、そんな生半可なものではありません。堕ち切った人間とは、人様に憐憫を乞う心理すらとうに忘れ、無感動の極地にひとり佇んでいるはずなのです。
つづいて挙げるのは、坂口安吾作『白痴』の2シーンです。
事態はともかく彼が白痴と同格に成り下る以外に法がない。なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。白痴の心の素直さを彼自身も亦(また)もつことが人間の恥辱であろうか。俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。
女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだった。明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。何をたよりに生きるのだろう。
(『白地』/『坂口安吾全集4』所収/筑摩書房/1990年)
「無頼派」の描く「堕落」に身を任せた人間は、かように痛ましく哀しく、そして生々しいのです。「堕落」とは、時代に関わりなく人間の本然的な姿、道であり、それゆえに、人間を描く小説を書くためには避けては通れない、重大かつ深遠な課題なのです。「堕落」とはどういうことか、「堕落」しきれない人間の弱さとは何なのか、また、「堕落」を避けようとする人間の心理はどのように働くのか―――それを突き詰めていくところに、人間の本質・生の普遍を見つめたテーマ、血肉を伴った人間が躍動する物語がきっと生まれてくるはずです。
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