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戦時下や圧政のもとでは、相応に人民の活動が制限されるものです。政治的思想を伴った言動に留まらず、プロパガンダの類でもない純潔の文学や美術の世界においてさえも、その力は及びます。私たちの暮らす日本にも、「表現」が規制され作家たちの活動が統制された暗い時代がかつてありました。小説を書く者も、詩を紡ぐ者も、絵を描く者も、自由に表現することは何ひとつ許されなかった時代です。ただ生命を守るために、己が創造性を封印せねばならなくなった作家たちは、いっぽうで状況に見合った選択を強いられます。そしてのちに彼らは、その自らが選んだ行動に対し、ある者は沈黙し、ある者は弁明し、ある者は称賛され、またある者は大きな代価を払うことになります。
第二次世界大戦さなかの1942年、文学者たちによって組織された「日本文学報国会」。当時のほとんどの文学者が会員として名を連ね、国策協力の名分のもと、戦意高揚・戦争賛美の熱いペンを振るいました。報国会主催の大会において、アジア諸国と八紘一宇(はっこういちう)の精神を共有しようという気運に沸いたとき、これに異を唱えて会を去っていったのは詩人の金子光晴でした。そしてもうひとり、同じく詩人ですが、光晴とは異なる道を選択した人物がいました。戦争の大義を信じ、国家への協力を惜しまず――が、戦後にその過ちを悔いて、己に罰を課した詩人。青年の日に『道程』を詠った高村光太郎です。
詩人でもあり彫刻家でもあった光太郎の父は、仏像彫刻の大家で彫刻界では重鎮とされる高村光雲です。若き日の光太郎を語るとき、この父・光雲との対立構図を忘れるわけにはいきません。光雲の長男として誕生し、後継者と嘱望されていた光太郎は、東京美術学校(現・東京芸術大学)で彫刻と西洋画を学びます。しかしもうそのころから、光太郎の裡には権威主義の美術教育に対する反発心が芽生えていたことでしょう。卒業後はニューヨーク・ロンドン・パリに留学。そして、パリでオーギュスト・ロダンの作品を目にした光太郎は、「私はロダンによって救われ、ロダンによって励まされた」と天啓を得、古色蒼然・旧態依然とした日本の美術界を忌み、光雲に公然と反抗するようになったのでした。
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立っている
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道 (後略)
(『道程』/『高村光太郎全集第十九巻』筑摩書房/1996年)
詩集『道程』は、青年期の光太郎を思い描くにせよ、芸術家としての生涯を概観するにせよ、重要な作品として位置づけられます。しかし、詩『道程』には、実は表面に現れているよりもずっと複雑な詩境が秘められているのです。私たちのよく知る国語の教科書にも載っていた『道程』とは、「僕」の志と未来が眩しい青春詩の趣でした。ところが、もともとこの詩は102行もの長詩として発表されており、現在知られている9行の形になったのは、その後の詩集出版時のことでした。いうなれば「旧『道程』」。その102行には、迷い乱れた青年の心の軌跡が一層生々しく表出していて、この詩が、眩しい未来などは容易に見出せない、懊悩の長い隘路を歩きつづけた果てに生まれた作であることがわかります。
詩集『道程』の出版からおよそ2か月後、光太郎は長沼智恵子と結婚します。智恵子についてはさまざまな人物評がありますが、彼女の本質に触れるような深い言葉は、夫の光太郎以外からはあまり聞かれません。光太郎が妻を追慕した随筆『智恵子の半生』には、社交を苦痛に感じる質(たち)であり、絵画に希望を抱いていたが、夫に向ける一途で誠実な愛と画家として名を成したいという強い思いとの矛盾撞着が、その純粋な心を砕いてしまったと、智恵子の人物と半生が語られています。
人を信ずることは人を救ふ。
かなり不良性のあつたわたくしを
智恵子は頭から信じてかかつた。
いきなり内懐(うちふところ)に飛びこまれて
わたくしは自分の不良性を失つた。
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを知らされて
わたくしはたじろいだ。
少しめんくらつて立ちなほり、
智恵子のまじめな純粋な
息をもつかない肉薄に
或日はつと気がついた。 (後略)
(『あの頃』/『智恵子抄』所収/新潮社/1984年)
結婚後十余年、実家の破産や自らの芸術活動への絶望、病の悪化などに打ちのめされた智恵子は精神を病みます。光太郎はそんな妻を懸命に看病し、回復させようと手を尽くしますが、1938年夏、彼が看取るなか智恵子は世を去ります。光太郎の『智恵子の半生』には、自分がデカダンスを抜け出せたのは智恵子の存在があったからこそで、彼女の死にいかに烈しい打撃を受けたかが繰り返し語られています。
現在においてもなお文庫本として入手可能、つまり時代を経ても読み継がれている詩集『智恵子抄』。汚れにまみれた自分を浄化してくれた智恵子――光太郎がその清らかさを詠いあげたオマージュ的一作が刊行されたのは1941年8月のことです。その年の12月、日米開戦の火蓋が切って落とされます。真珠湾攻撃を「世界の歴史あらたまる日」と称えた光太郎は、報国会の詩部会長の任を受け、国威発揚の意気も盛んに次々と詩を発表しました。戦争協力に積極的であった光太郎の熱意は、智恵子の愛に浄化された純白の精神の裏返しであったかのようにも映ります。果たして光太郎は、昭和のはじめ頽廃に膿み格差を生じた社会の汚濁が、戦争によって一掃されると幻想を抱かなかったでしょうか――。1945年、大空襲が数々の作品もろとも光太郎の東京のアトリエを焼失させます。さらに疎開先の岩手県花巻町(現花巻市)にも敵機は襲来し、再び焦土を見ることになった光太郎はこの地で終戦を迎えます。
まことをつくして唯一つの倫理に生きた
降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
今放たれて翼を伸ばし、
かなしいおのれの真実を見て、
三列の羽さへ失ひ、
眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
四方の壁の崩れた廃墟に
それでも静かに息をして
ただ前方の広獏に向ふといふ
さういふ一つの愚劣の典型。
典型を容れる山の小屋、
小屋を埋める愚直な雪、
雪は降らねばならぬやうに降り
一切をかぶせて降りにふる。
(『典型』/『詩稿 暗愚小伝』所収/二玄社/2006年)
終戦後も光太郎は帰郷することなく、花巻の山小屋でひとり7年間を過ごします。その7年がいかに失意に満ちていたかは、わずか3畳半ほどの驚くほど粗末な山荘の佇まいに知れます。それは贖罪の日々であり、60代になった光太郎が、もしかすると初めて静かにひとりで己を直視した歳月であったのかもしれません。もとより、智恵子の純粋さに打たれたのは、光太郎自身が純粋さを湛えていたからに相違ありません。そのときそのとき、彼の偽りのないひた向きさは詩作に宿り、だからこそ心熱のこもった言葉となって放射されたのではないでしょうか。自分の愚かさにも等しく頭を垂れた高村光太郎は、純粋でありつづけた詩人であったのです。それにしても、彼の生涯を見るにつけ、詩人として芸術家として、純真を保ちつづける道の険しさを思わずにはいられません。山小屋生活の心の記録としてまとめられた詩集『暗愚小伝』。自らを称した「暗愚」という言葉の重みは、詩人を志す者にも、そうでない者にも、重要な何ごとかを教えてくれるような気がします。
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