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「エロ」を「文学的エロス」へと昇華させるために

2017年08月17日 【小説を書く】

まずは「エロス」の本質を考える

本を書く書かないに関わらず、「エロ」という言葉に人は反応します。聞いていないフリをする人ほど、その実なにがなにが? なにが「エロ」なんだ?――と俄然聞き耳を立てます。マァなんてお下品ザマス……と、これ見よがしに眉間にシワを寄せるマダムとて例外ではありません。当然です。フロイトは「エロスとタナトス」を人間の欲望と論じましたが、「タナトス」が「死に向かう衝動」だとすれば、「エロス」すなわち「性への衝動」とは「生の欲望」なのです。ゆえに必然的にと申しますか、いにしえの世から芸術においてもエロスは一大テーマとなり、文学では性愛文学と呼ばれるジャンルも確立するに至りました。D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』、ジョン・クレランド『ファニー・ヒル』、井原西鶴『好色一代男』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、団鬼六『花と蛇』、果ては古代インドの『カーマ・スートラ』から人気作家の石田衣良『sex』まで、古今東西エロスを扱った文学を挙げれば枚挙に暇がありません。

当然ながらアマチュア作家もエロスに着目します。これでもかと重ねられる性愛シーン、普通の人々の日常に男女の秘め事をちりばめた物語からは、生きているがゆえの衝動が実感として熱く伝わってきます。そう、エロスとはやはり人の性(さが)なのです。しかしながら、まことに惜しむらくは、掘り下げるべきふたつの「性」、つまり享楽の「セックス」と人間の本性であるところの「性(さが)」が、バランスを欠いた書き方になってしまっているケースが多いことです。「ウー」「アー」などと喘ぐばかりの性交シーンがメインで終わってしまっては、文学としての芸術性や物語的興趣を獲得するのは難しいでしょう。繰り返しますが、エロスとは人間が生きているからこそ生起する衝動という意味では、心拍や脈拍といった生理現象と変わりなく、ただひたすらに性的な行為を表現するだけでは、心臓の動悸を延々描写することと大きく変わりはありません。人間に個性があるように、エロスの発現にもさまざまな理由、状況があるわけで、そこに踏み込んでこそ、「物語」としての精彩や味わいが生まれてくるのです。

恋愛小説大家が描く、愛欲の果ての物語

さて、前記の通り性愛文学は数多く存在しますが、男女の性愛を描いて一世を風靡した一作としては、渡辺淳一の『失楽園』を挙げる人は少なくないのではないでしょうか。映画にもドラマにもなりました。既婚の男女の恋愛、つまり不倫関係を題材としたこの物語は、肉欲の果てに主人公たちの心中で幕を閉じます。それは果たして、行き場を失った恋人同士が愛に殉じた姿であったのか、それとも、行き着くべくして行き着いた末路であったのか――。

凜子を知ってから、久木は必要以上に人目を避け、余計な気遣いをする気が失せてきた。
(略)
その開き直りのきっかけになったのは、1年前、それまでの部長職を解かれて、調査室という閑職に廻されたからである。
(略)
ここで役員になるチャンスを逸した以上、2年後には55歳になり、もはや永遠に役員になることはありえない。たとえ動くことがあったとしても、さらに地味なポジションに移るか、子会社に出向するだけである。
そう思った瞬間から、久木に新しく見えてくるものがあった。
(渡辺淳一『失楽園』角川書店/2004年)

『失楽園』には濃厚な性交シーンが何度となく描かれますが、性に翻弄された末に命を絶つ主人公たちの内には、虚ろな仄暗い闇があることがわかります。「失楽園」(Paradise Lost)とはそもそも、アダムとエヴァがエデンの園を追放される旧約聖書の挿話であり、堕天使ルシファーの策略により楽園を去っていく人間の姿を詠った17世紀イギリスの詩人ミルトンの叙事詩です。『失楽園』と題された物語で、主人公に「新しく見えてくるもの」とは何であったのか、とめどない性の喜悦か破滅への予感か―――それこそは、奈落へ落ちゆく男女を通じて作者が問いかけていることかもしれません。

フェティシズムに鮮やかな文豪の女性観

谷崎潤一郎の短編小説『刺青』は、刺青師の男が理想の足と肌を持つ女を拉致し刺青を施す物語です。この作品に性愛場面はひとつも登場しませんが、男の執拗なフェティシズムにはエロスが凝縮して、妖しく淫靡な愛の世界を現出させています。

その女の足は、彼にとっては貴き肉の宝玉であった。拇指から起って小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清洌な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを蹈みつける足であった。

「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨てゝしまいました。―――お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」
と、女は剣のような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひゞいて居た。
「帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ」
清吉はこう云った。
女は黙って頷いて肌を脱いた。折から朝日が刺青の面にさして、女の背は燦爛とした。
(『刺青』/『潤一郎ラビリンスT 初期短編集』所収/中央公論社/1998年)

『刺青』はごく短い物語ですが、ほんのわずかの弛みもなく、終始息をつめるような緊迫感が満ち、性的倒錯に溺れる男の内面を濃密に浮かび上がらせています。この小説でさらに注目すべきは、男女の性差といいますか、男の粘着的な気質と女のからりとした屈託のなさが、際立った対照となって描出されている点です。麻酔で眠らされ刺青を彫り込まれた女が刺青の背に朝日を浴びて立つラストは、谷崎の女性観の一端を映じるものといってよいのではないでしょうか。

エロスを深遠化させるノーベル文学賞作家の手並み

ノーベル文学賞受賞作家たちも、もちろん「性」をテーマにした作品を発表しています。大江健三郎は『性的人間』で「性的人間」となるしか道はない凡俗社会で生きる青年の宿命を描きました。川端康成は『眠れる美女』で、全裸の少女とただ添い寝をするだけの「秘密くらぶ」に通う老人像を浮き彫りにしました。(ある意味“受賞未遂”といってもいい)三島由紀夫は、この『眠れる美女』という川端作品をデカダンス文学の傑作と評しています。

この家に来て侮蔑や屈辱を受けた老人どもの復讐を、江口は今、この眠らされてゐる女奴隷の上に行ふのだ。この家の禁制をやぶるのだ。二度とこの家に来られないのはわかってゐる。むしろ娘の目をさまさせるために江口はあらくあつかつた。ところがしかし、たちまち、江口は明らかなきむすめのしるしにさへぎられた。
「あつ。」とさけんではなれた。息がみだれ動悸が高まった。とつさにやめたことよりも、おどろきの方が大きいやうだつた。

眠らせられた娘のからだにおそらくさからひはないだらう。娘をしめ殺してしまふことだつてやさしいだらう。江口の張りあひは抜けて、底暗い虚無がひろがつた。近くの高波の音が遠くのやうに聞える。陸に風のないせゐもある。老人は暗い海の夜の暗い底を思つた。
(川端康成『眠れる美女』新潮社/1967年)

川端康成は、生と死の境界を意味する「魔界」をテーマに何作かの小説を書いていますが、『眠れる美女』はその系譜に連なる一作です。無防備と見えて決して自分のものにはできない少女たちは、生において得られぬもの、望んではいけないものの象徴でしょうか。性と、生と、死――。まさしくエロスは、深遠な物語の「核」として考え深化させていくべきテーマといえます。老若問わず、男女も問わず、趣味嗜好もさして問わず、それでいて深掘りもできる。これほどまでに本を書くのにふさわしい素材は、なかなかありません。人間の普遍的な営みである限り、お手軽な「エロ」はそこいら中に散乱しますが、小説を書くと決めたあなたであれば、そこに生や死、人間存在に踏み込む針路を探ることをお奨めします。性への欲望が尽きせぬように、エロスには限りない物語の萌芽が眠っていると信じましょう。

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