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「平成レトロ」を書く日のために――

2018年05月18日 【小説を書く】

「いま」もいつかは「レトロ」になる

平成の世も残すところあと1年を切り、次の元号は何か何かと、ネット上ではジョークをまじえた憶測が飛び交うようになってきました。手帳屋さん、カレンダー屋さんは落ち着かない日々がつづきそうです。
さて、考えてみると「時代」というのは不思議なものです。長い時間の区分であると同時に、区切られたそれら時代は、歴史の成り行きとともに明確な文化的特色をそれぞれに収めています。15年に満たない大正時代も然り。自由主義が溌剌と息づいた時代の芳香は、短い年月に凝縮されたように薫り高く、一方では将来を暗示する不穏な空気をいまに伝えます。一見、時間を区分するだけのようでいて、そのじつ奥は深く複雑極まりない。それが「時代」の本質といえましょう。

さて、ここ日本では、「レトロ」とは「retrospective(=回顧)」の本義から少しはずれ、懐古趣味のことを差し「ノスタルジー」とほぼ同義で扱われています。これまでは主として戦後の昭和を懐古して使われることの多かった「レトロ」ではありますが、時代の移り変わりとともに振り返る側の年代も推移していくため、遠からぬ未来には平成の時代になって青年期・壮年期を送った人たちが懐かしむ「平成レトロ」が登場することになるのでしょう。でも「平成レトロ」っていったい何? と首を捻る向きもあるかもしれませんね。少なくとも作家を志す者ならば、そうした一種穿った視点や発想だって欲しいところです。そこで、まず留意しておきたいのは、懐古には時代の分析や思想や衒学的精神論は無用ということ。あくまで、懐かしむに足る空気感や文化や人間模様をすくい上げる柔らかな態度が求められるのです。というわけで今回は、時代を鮮やかに映し出したレトロ作品を検証し、新時代の「レトロ」に思い馳せてみることにします。

劇画家が遺した昭和・大正の希代のレトロ感

愛することがとても美しい時代は
すぐ終る
愛すること……
傷つくこと……
愛することが
いつまでも美しくないのは
なぜだろう?
なぜだろう?
(上村一夫『同棲時代』双葉社/1994年)

もはや普通名詞として定着した「昭和レトロ」について掘り下げる際、取り上げておきたいのが上村一夫。「昭和の絵師」との異名をとった上村は劇画家ですが、彼ほど時代に濃密な視線を注いだ作家はそうはいないでしょう。なかでも1972年に連載が始まった『同棲時代』は、「同棲」が当時の流行語となり、カップルに一大同棲ブームを巻き起こしたほど。そもそも、未婚の男女の共同生活が恋愛の一形式として周知されるようになったのは1970年ごろ。「同棲」には、暗く激しい昭和のルーツがあったのです。

同時期の漫画といえば、死をも辞さない愛を描いて人気を博した『愛と誠』(梶原一騎原作/ながやす巧作画)という作品もありますが、要するに一対の男女の無二の愛とは、昭和の風俗を代弁する重要なテーマであったわけなのです。男女の愛の理想化・唯一化を、思い切り重々しくドラマティックに表現した昭和。そのなかでもこれら二作は、最も昭和的な色合いに染まった作品といえるでしょう。

上村にはまた、大正8年前後の時代を取り上げた『菊坂ホテル』(角川書店/1985年)という作品があります。こちらに描かれるのは、竹久夢二、谷崎潤一郎、大杉栄、伊藤野枝、菊池寛、佐藤春夫、芥川龍之介……といった世に聞こえた華やかな面々の競演による人間模様でした。通称「十二階」と呼ばれた、関東大震災で崩落する浅草凌雲閣が象徴的に聳え立つ物語は、まさに大正浪漫が匂い立ち、短い時代とともに去っていった人々の残像が浮かんでくるようです。

戦前の昭和が醸す妖しい上流の香り

ここは日本ではなくて、ヨーロッパの小国かシナの国際都市の場末にでもいるような感じで、私は益々この奇妙なホテルが好ましくなった。そのころ私は市内の高級ホテルには、よく泊まっていたが、そういうホテルとは全く感じがちがい、翻訳小説などで想像していた十九世紀末あたりの西洋の安宿への郷愁とでもいうような気分をそそられたのである。
(久世光彦『一九三四年冬―乱歩』東京創元社/2013年)

久世光彦の『一九三四年冬―乱歩』は、江戸川乱歩を主人公とした「昭和レトロ」の異色作。昭和9年の東京麻布、ひと癖ふた癖ありげな外国人がたむろするとあるホテルを舞台に、スランプに陥った乱歩失踪の4日間を描きます。江戸川乱歩は実際執筆に行き詰っては姿をくらませていたといいますが、久世はその空白の時間をフィクションとして仕立てたわけです。物語で乱歩が身を潜めるのは、外国人が闊歩する長期滞在型ホテル。美貌の中国人のボーイにマンドリンを弾くアメリカ人マダム……と、道具立ても登場人物造形も抜かりなく、異国情緒薫る戦前の有産階級の昭和を浮かび上がらせます。「夢の中の青に全身を染めて漂っているうちに、乱歩はいつか青一色の蝶になり、銀色のピンで大空に展翅(てんし)されたまま、帰ろうか、と悲しく考えた」との古めかせた文体が天鵞絨(ビロード)のような光沢をイメージさせ、乱歩による耽美的な作中作(久世の創作)とともに妖しさを添えます。TV演出家でもあった久世は、ドラマ全盛期に活躍したいわば「昭和」のエキスパート。本作はそんな久世の小説第一作、ひとつの集大成といえましょう。

少年の心に宿る珠玉のレトロ

家にもとからひとつの茶箪笥がある。(略)そこに鼈甲(べっこう)の引手のついた小抽匣(こひきだし)がふたつ並んでるうち、かたつぽは具合が悪くて子供の力ではなかなかあけられなかつたが、それがますます好奇心をうごかして、ある日のことさんざ骨を折つてたうとう無理やりにひきだしてしまつた。そこで胸を躍らせながら畳のうへへぶちまけてみたら風鎮(ふうちん)だの印籠(いんろう)の根付だのといつしよにその銀の匙をみつけたので、訳もなくほしくなりすぐさま母のところへ持つていつて
「これをください」
といつた。眼鏡をかけて茶の間に仕事をしてた母はちよいと思ひがけない様子をしたが
「大事にとつておおきなさい」
といつになくぢきに許しがでたので、嬉しくもあり、いささか張合ぬけのきみでもあつた。
(中勘助『銀の匙』岩波書店/1989年)

中勘助の名はいまではそれほど知られていないかもしれませんが、大正初めに出版され夏目漱石や和辻哲郎らに絶賛された代表作『銀の匙』の人気は息の長いものです。実際、近年の岩波文庫の人気ランキング(2003年開催)でも夏目漱石の『こころ』『坊ちゃん』に次いで選ばれるという、名作の地位を確立している知る人ぞ知る一作なのです。ちなみに中勘助は稀に見る美男で、野上弥生子の長年に亘る想い人でもありました。

「銀の匙」とは生来病弱であった「私」の薬用の匙で、そんな「私」が伯母から限りない愛情を受けつつ成長していく姿が描かれています。特筆すべきは、少年の「私」の心があるがままに描出されている点です。もちろん童話ではなく大人が読むに堪える小説ですが、その文面に大人の心情が覗くことはありません。作者自身がまるですっかり子どもに返ったように、「私」の心は多感で純真な少年そのものなのです。

『銀の匙』は中勘助の自伝小説といわれ、中自身が育った明治中ごろを時代背景としています。確かに当時を思わせる情景描写は見られますが、明治独特の文化や明治人の精神性を主眼とした作品ではありません。描かれているのは少しずつ成長していく少年の瑞々しい感情の動きで、それは確かに時代を超えたものではありますが、むしろ明治中期の少年がこのような心をもっていたことに、不思議な驚きを覚えます。『銀の匙』には、誰もが慈しみ懐かしみ、あるいは眩しい憧憬を感じる、かけがえのない少年の日々が描き留められているといえるでしょう。

レトロ感覚を培う「いま」の時代を見つめる目

前述のように、「時代」とはそれぞれの特異性を映じて歴史を刻んでいくものです。そこに懐古の眼差しを向けるとき、時代的な道具立てとともに、ある種の“愛”は欠かせません。たとえば小説を書くとき、主人公がごく普通の庶民であっても特別な人間であっても、彼らはその時代と密接な関係を結んでいなければなりませんが、それを行間に滲ますには、描かれる時代そのものに対する作家の愛が必要なのです。新しい切り口の模索も然ることながら、時代に向ける愛とこだわりが、その物語にレトロ的温もりと懐かしい薫香を醸成するからです。時代とはまた、おのずと古びていくものであり、いまのこの時代にも懐古の情を向けるときがいつかやってきます。みずからが過ごす「いま」というこの時代を、少し遠くから眺める感覚で見やってみましょう。その目線が、いつの日かあなたに新時代の「レトロ」を描かせてくれるはずです。

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