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90年代後半、『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生操著 ベストセラーズ/1998年)の登場により、日本でもすでに童話の“ザ・スタンダード”的ポジションに座していた古典童話集『グリム童話集』が、いまさらながらの注目を集めました。『赤ずきん』『ヘンゼルとグレーテル』『白雪姫』というような誰もが知るメルヘンが、実は原書ではものすごく残酷なんですよ――という降って湧いた話に誰もが驚き、20年ほどが経った現在でもときおり小ネタにされるほどの一大ブームが巻き起こったのです。その当時、すでに成人していた人こそ驚き慄いたはずです。なぜならば、おそらくは彼らも幼少期に読んでいただろうだから。健やかなる純真で優しい言葉が並ぶはずの童話世界にあって、残虐描写も辞さず人間の残酷さや本質をもち込んで描かれたグリム童話集の正体。それが本当は大人もひくくらい恐ろしい話だったのだと知らされたときの感触は、たとえば……、亡くした実母のおぞましい過去を、遺された日記からある日突然に知らさせる衝撃にも近かったのではないでしょうか。想像するに。
しかし、なんでまたグリム童話集にはそのような恐ろしい物語ばかりが収録されているのでしょうか。グリム兄弟が児童文学の歴史に名を刻み、その功績が高く評価されていることは疑いようがありません。けれど、童話集の正体すら知らなかった私たちが、その功績についてきちんと理解しているかは疑わしいものです。何といっても世界においても草創の童話集です。もしあなたが童話作家になりたいと志抱くならば、これを機にその真実を知っておいても損はないでしょう。
フランス革命後、ナポレオンが台頭しヨーロッパ全体に暗雲がたれ込めると、それまで隆盛を極めていたドイツ国内のロマン主義は鳴りを潜め、各地に根差した民衆文化に人々の関心は移ろいはじめます。ときは1800年ごろ、言語学者であったヤーコブとヴィルヘルムのグリム兄弟も、祖国ドイツに伝えられてきた民話の発掘と蒐集をスタートさせました。こうしてまとめられたのがグリム童話集です。彼らグリム兄弟の第一の功績は、このように大量の民話を消滅から救ってまとめたところにあります。では第二の功績が何かといえば、集めた民話を“子ども向け”に改訂して採録したことになります。とはいえこの改訂作業は、キラキラとしたハッピーエンディングを旨として行なわれたわけではありません。あくまでも、もとの民話の姿を保った上での改訂だったのです。
女王は狩人を呼んだ。
そしてこう命令した。
「白雪姫を森に連れていって、殺せ!
殺したら肺と肝臓を取って持ってこい!
塩で煮て食ってやる!!」
(吉原高志・素子翻訳『初版グリム童話集』白水社/1997年)
口減らしのためにヘンゼルとグレーテルを捨てるのが継母ではなく実母だったり、シンデレラの姉が窮屈な靴に足を入れようと自らの踵を切り落としたり、グリム童話集(原書)には確かに現代の感覚では取り入れられることのない生々しい内容が含まれています。しかし、原典ともいえる当時の口承の民話・神話は、その比ではないくらいに人間の残酷さや醜さや生の本質的なこと、ときにはあからさまな性も盛り込まれた説話であったようです。子どもがそれを聞いて何ら問題ないというはずがありません。何より、そもそも200年ほど前には、ヨーロッパに限らず日本でも、“子ども”とはやがて一人前になる大人予備軍であるという認識がまずあり、子ども扱いしてかわいがる風潮はあまりありませんでした。当然、子ども向けの物語などもありませんでした。そうした時代において、たくさんの伝承民話を集め、人間の真実を残しつつも、版を重ねるごとに“子ども向け”に適宜マイルド化が施されたグリム童話集の誕生は、充分にエポックメイキングな一事件であったことと想像されます。
では、そうして民話の原形を残していたはずのグリム童話集が、過度にマイルド化され本来の残酷さを根こそぎなくしたのはいつからなのでしょうか。『白雪姫』や『シンデレラ』、あるいはシャルル・ペローの『長靴をはいた猫』といった作品が、お馴染みの隅から隅までハッピーで心地よい夢の世界の話のようになったのには、いったいどういう成り行きがあったのでしょうか? ――と問えば、そこに登場するのはウォルト・ディズニーということになるでしょうか。ディズニーは、それまでの童話が含んできた寓意や、人間世界をベースにした残酷なリアリズムを排除するか、もしくは原形がわからなくなるほどの分厚いオブラートにくるんでは、子どもが悪い夢に魘される(うなされる)ことなく楽しい空想世界を満喫できる「童話の定理」を創り上げました。それは現実とは断絶したファンタジーであり、アニメーションの技術革新と世界的な台頭と相まって、世の親たち、子どもたちに爆発的人気を博すに至ったのはご存じのとおりです。
子どもの世界(≒幼児エンタメ業界)に花開いたこうした新文化は、相応に子どもたちの想像力や時代に順応した技能力を育んでくれたともいえるでしょう。一方で、なおざりにできないことがあります。グリム童話の原典に恐れ慄き顔をそむけてしまったことで、忘れ去られたもの、失われたものは果たしてなかったのでしょうか。もしあなたが物事の本質を衝く童話を書きたいのだとすれば、そこを考えなければなりません。そのためにはまず、民話の成り立ちに目を向ける必要があります。
民話とは、平和な社会から生まれたものではありません。虐げられた民衆の生活の貧しさ、苦しさのなかから生まれてきたのです。子や老人がいとも簡単に売られ、捨てられ、親に鞭打たれたり酷使されたりする姿が当たり前に描かれているのはそのためです。人間の本質や社会の図式に大差はなく、それは世界のどこでも起きていたことであり、遠く隔たった国で驚くほど似通った民話が語り継がれるのにはそうした理由があります。事実、南方熊楠は『シンデレラ』の最古の原話を中国の9世紀の記録に見つけていますが、ともかくグリム童話集の原典には、痛ましい残酷な現実に通じる描写が留められていました。そうした現実風景を取り去ってファンタジックな脚色を施した童話は、目にはすべてが明るく楽しく、心を弾ませてくれるでしょう。けれど、言い換えればその物語は、“目に見えるものでしか語られていない”ということになるのでしょう。
ものごとは心でしか見ることができない。大切なことは目には見えない。
(サン=テグジュペリ著/内藤濯訳『星の王子さま』岩波書店/2000年)
思い出されるのは、この有名なフレーズです。実の親が我が子を捨てる、この一事を見て鬼の所業のように断罪することはたやすいです。けれど、鬼のような所業の背景にはやむにやまれぬ事情があった、残酷な描写の裏にはそうした手段しかもちえない社会状況があった、民衆の苦しみと嘆きが蔓延する国が山ほどあった――そうした世界を窓の向こうにも見せることなく、思惟の伝手すらすべて排除してしまうことには、小さからぬ弊害も生じるのではないでしょうか。
神話の欲することは、すべての人間が、永遠でありながら日附のついているあの映像、人間について或る日あたかもすべての時代に通じるかのように作りだされた映像の中で、互いに認めあうことに他ならない。なぜなら、永遠化するという口実のもとに人間がその中に閉じこめられる自然は、慣用にすぎないからだ。そして、この慣用がいかに偉大なものであれ、人間はそれを手に掴みとり、変形するべきなのだ。(訳者解説文)
(ロラン・バルト著/篠沢秀夫訳『神話作用』現代思潮社/1967年)
童話作家になりたいと願うあなた。誤解しないでください。だったらリアルな残酷さを童話に書けばいい、という短絡的な話ではありません。上に引いたのは、フランスの哲学者ロラン・バルトの著書『神話作用』に付された訳者の解説文。なかなか暗示的と感じられます。バルトはこの著書で、現代のファッションやスポーツその他さまざまな分野に及んでいる“神話の作用”の安易さ、手前勝手さを批判しました。そして、神話を現代に描くには正しい「変形」を試みなければならないと示唆したのです。民話をルーツとする現代の童話もまた然り。子どもたちに滋養を与える童話を書くためには、まず、グリム童話集の恐ろしさを徒に敬遠するのではなく、その物語が成り立つ背景に何があったのかを考える姿勢をもちたいものです。そして、現代の子どもたちにも、目に見えない真実に気づく感覚や知性を養う物語を提供したいではありませんか。
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