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「歴史小説」といえば、いつの時代も根強く人気のある1ジャンル。もうそれしか読まない! という読者だっているほどです。ただ日本国内では、どちらかというと「娯楽小説」としての色調が強く、歴史小説愛好家とはまったく逆に、歴史モノだから読まないという読者も少なからずいるようです。音楽でいうならば、クラシックファンが「演歌はちょっと……」というのと似たような感じかもしれません。
芸術的な品質にまつわる話は気安く触れられるものではありませんが、やはり「娯楽」や「エンタメ」に側に立つジャンルというのは、どこか下に見られるものです。あなたは歴史小説ファンですか? だとすれば、悔しいですねー。悔しい。もし歴史小説ファンで、しかもそれを書く側であれば、なお悔しいでしょう。見返さない手はありません、いや絶対に! 歴史小説を軽んじる手合いをギャフンと言わせてやりましょう。その際、クラシックファンをして「演歌でも美空ひばりは別格」と言わしめるような、歴史小説の芸術的品質を高める秘訣がもしあるのなら、知っておいて損はありません。しかも昨今は、実際のところ歴史上のスターたちが出尽くした感も否めません。つまり、娯楽小説では終らない文学性高い歴史小説を構想する節目ともいえるのです。もし、あなたがある歴史の題材や時代をオリジナルの小説に仕立てようと狙っているのなら、志高く野望は大きく、「○○は別格」のポジションを目指してチャレンジするまたとない機会と捉えましょう!
それでは、歴史小説家志望者、必見。娯楽小説を大作へと昇華させる決定的要素とは果たして何か?
当ブログの辞書に「前戯」などという語はありません。とっとと核心に入りますと、歴史小説を大作化するための最初の一手は「リアリズム」の構築です。とここで、歴史モノのリアリズムって時代考証? それ当り前――と呟いたあなた、新米剣士並みにせっかちです。前戯を省くにしても急いている素振りは見せてはなりません。そりゃそうです。歴史小説において時代考証や史実の正確性などは最低限のマナー。では、ここでいうリアリズムとは何か。それは作中の登場人物を通して、時代や社会の実相を描き出していく“手法”にあります。時代・出来事・事件を体験した者の生(なま)の声、実感に迫っていくこと――と換言できるでしょうか。
さて、理解度をより深めるために、テキストをご用意しました。どうせ学ぶなら、文学史上の金字塔レベルがわかりやすいですよね。今回引かせてもらうのは、レフ・トルストイの『戦争と平和』です。もはや今日的な意味合いの「歴史小説」とくくるには重厚過ぎる歴史超大作です。
では、まずは概要から。『戦争と平和』は、19世紀初頭のナポレオンのヨーロッパ遠征、モスクワ侵攻までの史実を舞台背景に、ロシア貴族らの運命と新時代の夜明けを描いた群像劇です。『月と六ペンス』で知られる20世紀の人気作家サマセット・モームは、トルストイの『戦争と平和』を世界の十大小説として挙げましたが、その理由が興味を惹くところで、「散文で書かれた虚構の物語で、この小説ほど真に叙事詩の名に値する作品を、他に思い出すことはできない」というのです。「叙事詩」――すなわち歴史的事件という「リアル」と文学的情感とが際立った物語と解釈できましょう。『戦争と平和』の登場人物は実に500人以上(これは出し過ぎという意見もあります)、とりわけ中心的な役割を担うキャラクターの描写にはリアリズムが貫かれていると評されていて、彼らの姿は時代の壮大なうねりのなかで繊細な生命の輝きを放っています。
ニコライ・ロストフは顔をそむけて、 何かを探しもとめるように、遠方や、ドナウの水や、空や、太陽を眺めはじめた。空が、なんと美しく見えたことだろう、なんという青さ、静けさ、深さだろう!(中略)なおその上にも良かったのは、ドナウの背後で青みを帯びている遠い山々、僧院、神秘めかしい谷、こずえまで霧のかかった松林などであった……あそこは静かで、幸福そうだ……《ただあそこにいさえすれば、自分は何も、何も望まないだろう、本当に何も望まないだろう》とロストフは考えるのだった。《自分一人と、そしてこの太陽のなかには、じつに多くの幸福がある、それだのにここには……うめき声と、苦痛と、恐怖と、それからこの曖昧さ、このどたばた……ほらまだ何かどなっている、またみんなどこか元の方へと駆けだした、そして俺もみんなといっしょに走っている、そら、あれだ。あれが、死が、俺の頭の上やまわりに来ているのだ……。一瞬それでもう俺は永久に、この太陽も、この水も、あの谷も見なくなるのだ……》
(トルストイ『戦争と平和』中村白葉訳/河出書房新社/1966年)
死がそこらじゅうに跋扈するドナウ川渡河戦のさなか、ロシア貴族の青年ニコライは「何かを探し求めるように」周囲を見渡し、そして空を見上げました。これは、従軍したニコライにとって戦争の大義が失われた瞬間です。戦闘のいわばハイライトシーンで、このように兵士の心情に静かに分け入るという描法はあるいは珍しいかもしれません。ですが、間断ない緊迫したシーンに兵士の心が無であるかというとそれは違います。わずか数秒がスロービデオのように感じられる瞬間、その心には無数の言葉や思いが乱反射する光のごとく錯綜していたに違いありません。
人物の内面のリアルを捉えたこの場面はまた、貴族社会が衰退に向かっていく予感を閃かせるかのようです。このように、作中人物の内面を透過する形で滔々と流れる時代を見せてくれるばかりか、当時の社会を象っているシステムが変容する様までをも読者の瞼に映し出してくれる作品であること――それが、真の大作の要諦なのです。
『戦争と平和』では、生と死が不可分であるという死生観がエピファニー(物事の本質や真理の象徴的な啓示)的意匠としてちりばめられていますが、もうひとつ絶対に押さえておきたいのが「崇高性」です。
もうとっくに忘れていた、昔スイスでピエールに地理を教えた柔和な老教師の姿が、生きている者のようにピエールの前に現れた。『待ちたまえ』老人はこう言って、ピエールに地球儀を見せた。その地球儀は一定の大きさを持たず、生きて揺れ動いている球だった。球の表面はすべて、たがいにぴったりと密着した水滴から成っていた。そしてこれらの水滴はすべて、動き、移ろい、あるいは数滴がひとつに融け合ったり、あるいはひとつからいくつにも分かれたりするのだった。水滴のひとつひとつが膨れて、少しでも多くの空間を占めようとするのだが、同じことをめざす他の水滴がそれを圧迫して、ときにはつぶしてしまったり、ときにはいっしょに融け合ったりするのだった。
「ほら、これが生なのだよ」と老教師は言った。
(同上)
これは、ニコライの友人でもある同じく貴族の青年、敵軍の捕虜となっていたピエールが、戦友の射殺を目の当たりにした直後に見た夢のシーン。「生命」を考える哲学的な命題のエピファニーとなっています。ここでの水滴とは、運命によって揺れ動く人間の生のメタファーでしょうか。水滴に喩えられる人間の生は、科学的な現象さながらの動きを見せて、どれも微妙に異なった形をしていても、全体として統一性を具えている――そう示唆し深遠な思索へと導いているようです。
さらに、崇高性はテーマだけではなく、歴史そのものの描き方にも感じられます。つまり『戦争と平和』では、歴史的な事件が単に物語の背景として取り上げられているのではありません。過去・現在・未来を問わず、歴史とは抗えない大きな力であり、人の運命は歴史を体験するなかでのみ定められているという思想が、大河の奔流を思わせる物語『戦争と平和』のなかには見出せるのです。歴史をそのように解釈した上で、それでもなお歴史を動かすものがあると。つまり、その原理こそ崇高性なのだという含意です。『戦争と平和』の真の主役とは、あるいは「歴史」そのものなのかもしれません。
余談になりますが、ピュリッツァー賞作家マーガレット・ミッチェルは、死後の遺稿集を除けば生涯ただ一作の小説となった『風と共に去りぬ』を書くにあたって、影響を受けたのは『戦争と平和』であったと語っています。実際この小説には、「リアリズム」や「崇高性」において『戦争と平和』との近似点が見られます。たとえばリアリズムは、ヒロインのスカーレット・オハラの相反する人間性をもった造形に感じとれます。そして歴史的崇高性については、ミッチェル自身がアーネスト・ダウスンの詩『シナラ』の一節「gone with the wind」から採った作品タイトルが物語るとおりでしょう。
事実は小説より奇なり、史実は創作より奇なり――。「歴史小説」という多作豊作のジャンルにおいてニューヒーローを見出すことは、今日の日本で新たな金山を掘り当てるのにも近い難業ですが、見方を変えて前述2つの決め手にフォーカスしてみれば、史実をフィクション化する歴史小説には、興味深い試みの余地と広範な可能性がまだまだ残されているといえます。あまつさえリアリズムの手法とテーマについて考えることは、何にせよ小説を書くというクリエーションに大きな実りをもたらしてくれるはず。歴史小説を書きたいとふと思い立ったら、登場人物とともに彼らが生きた時代をも照射する“新たな歴史小説”をぜひ構想してみてください。
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