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人間の心のありかたを考えるとき、これをもって至上とされやすいものに「枯淡の境地」というのがあります。「枯淡(こたん)」とは、「俗世間の名声や利益などにとらわれないで、あっさりしていて趣があること。絵画や文章などが淡々としていて、しかも情趣があること。また、そのさま」(『精選版 日本国語大辞典』より)。なるほど「悟りの境地」とも言い換えられそうですが、人間の心の状態として、生の波瀾と懊悩を呑み込んでようやく到達し得る、いかにも理想的なありかたのように思えます。
ところが、崇高な心のありかたであると認識されているにも関わらず、やたらと軽々しく喧伝されがちなのが「枯淡の境地」でもあります。「イヤイヤ、ワシなどいまさら地位でも名誉でもないよ、枯淡の境地というやつさ、ハッハッハ」などと、どこぞの大臣が欲深さの隠れ蓑にこの言葉を借りるときなどは、どう見ても「枯淡」とはほど遠い態度なわけです。文学や芸術作品にも、しばしば「枯淡」の風趣が称せられることがありますが、ゆえにそれが原因となり、「枯淡の境地」を表現する作品こそがひとつの到達点である──との誤解が生まれもしているようです。確かに、人も作風も、あれこれやって行き着く先が「枯淡の境地」であればそれはひとつの正解なのでしょうが、あれこれやらずに最短距離で「枯淡の境地」に至るのでは、ただただこぢんまりとした印象を与えるだけでしかありません。もとより成長や成功に至る道には茨が生い茂っているもの。作家を目指すのなら、その覚悟とともに「枯淡の境地」への理解を正しく胸に刻んでおくことはとても大切です。
「枯淡の境地」といえば文学的にまず連想するのは俳句。確かに「枯朶にからすのとまりけり秋の暮」(松尾芭蕉/1680年ごろ)など、閑寂枯淡の風趣といえば俳句の独擅場の気配さえあります。しかし、蕉風と呼ばれる枯淡や侘び寂びの俳風を確立した芭蕉にしても、「枯淡の境地」が芸術の道として目指すところであるとは露とも思っていなかったでしょう。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と、その心は死の床にあってなおも生き生きと躍っていたのですから、結果的に至った境地が「枯淡」であったというだけの話で、加えていえばあくまでも外部の評価によるものなのです。
坂口安吾などは、まさに『枯淡の風格を排す』という痛快無比なエッセイを書いて、「枯淡の境地」を「インチキ」呼ばわりしまさにペッと吐き捨てるがごとくですが、その論理は鉄のように盤石かつ明晰です。
「枯淡の風格」とか「さび」というものを私は認めることができない。これは要するに全く逃避的な態度であって、この態度が成り立つ反面には、人間の本道が肉や慾や死生の葛藤の中にあり、人は常住この葛藤にまきこまれて悩み苦しんでいることを示している。ところが「枯淡なる風格」とか「さび」とかの人生に向う態度は、この肉や慾の葛藤をそのまま肯定し、ちっとも作為は加えずに、しかも自身はそこから傷や痛みを受けない、ということをもって至上の境地とするのである。虫がいいという言種(いいぐさ)も、このへんのところへ来ると荘厳にさえ見えるから愉快である。
(坂口安吾『枯淡の風格を排す』/『坂口安吾選集 第十巻エッセイ1』所収/講談社/1982年 ルビは引用者による)
さて、このあと安吾先生は当代きっての作家数名を挙げ、「枯淡の境地」の罪名のもと遠慮仮借なくこきおろしておられますが、なかでも重要なのは会話文についての指摘。これは小説を書こうとする者がともすれば犯しがちなミスを鋭く突くものとなっていて、おおいに参考になります。
例を挙げましょう。壮年を迎えた男と不倫関係にある女との電話でのこんな会話があったとします。
「これから会えないか?」
「これから? どこで?」
「いつも行くバーで」
「いつもって、どの店?」
「ほら、何度も行ってるだろ。君がダイキリがおいしいっていってた、渋谷の」
「ああ。これからちょっと買い物に行こうかと思ってたんだけど……わかった、行くわ」
本来「男は女を行きつけのバーに呼び出した」の1行で事足りるところを6行も費やしているわけですが、こうした会話文に言外の、裏の意味がない限り、書くのは紙面の無駄な消費、ストーリーが徒に冗漫化するだけです。とくにうしろの2行、言葉少なめでは互いの意思の疎通すらままならないものだから、どんどん長くクドくなっています。いかにも習作にありがちなこうした例についての坂口安吾の弁はこうなります。
元来会話というものは、語られた言葉の内容が心の内容の全部ではなく、語らざる心もあり、言葉の裏側の心もあり、更に二重に三重に入り組んだ複雑が隠されていることは言うまでもない。(中略)裏も表も悩みもない、単に日常生活の表面のみを辿って記録し報告する斯様な文章は、これを綴り方と言い、小説とは言わない。小説とは報告にとどまる叙事文ではないのである。
(同上)
では、安吾のいう「語らざる心」のある会話文とはどういったものか、筒井康隆の『ジャックポット』から引用してみましょう。
「父さん」
「おう」
「母さんは元気」
「元気だよ」
(筒井康隆/『川のほとり』/『ジャックポット』所収/新潮社/2021年)
筒井康隆の近著『ジャックポット』に収められた一遍『川のほとり』は、2020年に51歳の若さで急逝した長男への追悼を込めた作品です。夢のなか、川のほとりで亡き息子と再会した主人公が、夢が早く覚めないようにと、ゆっくり静かに息子と言葉を交わす場面を描いています。86歳を迎えた年にインタビューを受けた筒井康隆は、本書についての心境を問われると、奇しくも「枯淡の境地」かといえばそうなのかもしれないと答えていますが、それは、多くの苦しみ悩みをなおも抱えながら自分なりにひとつの折り目をつけた心境──というべきなのでしょう。上に引いたたった4行の言葉のやり取り、音にして20音足らずの言葉の裏側にある父子の心の襞には、どれほどの思いが層をなしていることか。それを文字として読ませることなく読者の胸にじかに感じさせる筒井氏の筆は、まごうことなき「枯淡の境地」といえそうです。
いくつになろうがみずから率先して足掻きのたうち、ときに熱狂に身を任せる、それが作家としてあるべき姿であると説いた坂口安吾。つまるところそれは“本音の生き方”以外の何ものでもありません。「自分の本音さえ雑音なしに聞き出すことは現代の我々には難しい」と自戒も込めて語った彼が、苦難の道を歩きとおした人として唯一挙げたのは、俳諧師として名を馳せた井原西鶴でした。西鶴の処女作にして代表作はあの『好色一代男』。タイトルからして“本音の生き方”が迸っているように思いませんか?
「枯淡の境地」などというと一見深みありげで、さァて、いっちょシブく決めてやるか──などと気取りたくなるのもわからないではありませんが、それは作家になりたくてペンを握るより先にパイプタバコに手を伸ばすようなもの。ヘタをすると益なくむしろ害あるものともなってしまいます。詩を書く、小説を書くという創造的行為において、足掻きのたうち、熱狂に身を任せた先に見えてくるもの。それを作品として表現し得たとき、作家になりたいと冀っていた者はようやく「枯淡の境地」と呼べる静かな充足感に満たされるはずなのです。
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