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さて、小説を書くか、エッセイを書こうかと意を決したとき、あなたならどうしますか? ここから一歩も動くまいとかまえて、パソコンの画面や原稿用紙を睨み、どっかと腰を据える──そんなイメージはありませんか? 駆け出しの作家というと、苦行僧さながら、無我なのかウツロなのかわからない顔をして指を動かしてみては、ときおり天井を仰いで嘆息し、それを3、4回繰り返したあげく、きょうはどうも調子が出ないな……と苦笑いするか、おれなんかダメだ作家になんかなれるわけない……と肩を落とす、というステレオタイプのイメージがありますよね。さらにいえば、そのうち夕暮れが迫り、切なさもちょっとつのってくると、酒をちびりちびりやりはじめて……というような。どうも現代日本で「文学」というと、太宰治病から逃れられず、自己憐憫もまた“小説家のひとつの仕事”と捉えられている気配が、いまだに一部の作家志望者の心を支配しているようにも思えます。いかがでしょうか。上の例はデフォルメされたものだとしても、自分は一切そんなことはないと胸を張れるものでしょうか。
しかし本稿はその姿勢を問うものではありません。自己憐憫や野心と自堕落の無限回廊というのは、いつの世も人間存在の根幹に関わることですので、それが文学のテーマになり得ないということはありません。そうではなく、家を出なくていいのですか? ということなのです。想像力や体験や知識の豊富な備蓄があり、備蓄どころか無尽蔵に原産されるのであれば別ですが、“生きた文章”が、どこよりも安寧とした自室で微動だにしない姿勢から生まれてくるかといえば、それは難しいようにも思えます。これは、外界とのコンタクトを絶っている引きこもりの方には、生きた文章は書けませんよねということではまったくありません。あなたがもしそうした暮らしをされているのならば、すでに十二分に外界との摩擦に悶え苦しみ、精神的な闘争はとうに繰り返されていることでしょう。そうではなく、ふつうに暮らしを営む多くの人が、さて小説を書くかという衝動に駆られたとたん、文机に向き合おうとするその最初のアクションの謎、そしてそのもったいなさを少し考えてみたいのです。つまり、一般の人が精彩ある文章を書くためには、心身に新鮮な外気を取り込んで生き生きと躍動させる必要があるのではないでしょうかという問いかけなのです。
むろん庭を逆立ちして歩いてみようとか、海で10キロ泳いで見たことのない世界を覗いてみようとか、無理難題へのチャレンジを推奨しているわけではありません。そうではなく、まずは寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』よろしく、外へ出てみましょうということです。一歩外に出れば人は歩いているし、別に大自然の真ん中でなくたって、草や木は近くにあるでしょうし、お天道様だって頭上で照っています。雨ならば降雨直後の街の埃っぽい空気の匂いを嗅ぎ、生命の脈動に心を合わせ、雫ひとつひとつが放つ自然の織り成す色と光の綾に目を楽しませる──。そんなひとときから生まれてくる文章にこそ、読み手を魅了する輝きが宿るはずであり、それを真っ向から否定できる方はいらっしゃらないことでしょう。
朝早くとび起きて、頭はすがすがしく、気持は澄み、からだも夏の衣裳のように軽やかな時にだけ、彼は出かける。別に食い物などは持って行かない。みちみち、新鮮な空気を飲み、健康な香(かおり)を鼻いっぱいに吸いこむ。猟具(えもの)も家へ置いて行く。彼はただしっかり眼をあけていさえすればいいのだ。その眼が網の代りになり、そいつにいろいろなものの影像(すがた)がひとりでに引っかかって来る。
(ジュール・ルナール著・岸田国士訳『博物誌』新潮社/1954年 ルビは引用者による)
日本であれば多くの人が子ども時代に一度は読んだであろう『にんじん』。それを書いたジュール・ルナールは、『博物誌』冒頭でこんなふうにときをわかたず外へと出ていく「彼」の姿を描いています。この「彼」とはつまり、以降つづく動物観察日誌を綴ったルナール自身なのでしょう。そうして彼は、ひとつひとつの命に触れ、対話し、あるいはおしゃべりを聴きとって、一篇一篇、ごく小さな物語に仕立てていったのです。鶏、家鴨(あひる)に鵞鳥(がちょう)、牛、馬、山羊、兎……。ルナールの古い農家での暮らしの周辺には自然が豊かで、たくさんの家畜にも囲まれていましたが、そのような恵まれた環境でなくたって、日本中どこの町にも犬や猫はいるし、たまに蜥蜴(とかげ)がちょろちょろ横切っていきますし、鳩や雀が飛べば蝉が鳴く、それくらいの生命感はどこにいても味わえます。そう、家を出て、しっかり目を開けてさえすればいいというわけです。たとえばルナールは、塀を走る蜥蜴を目にして、こんな会話を聴きとりました。
塀──「なんだろう、背中がぞくぞくするのは……」
蜥蜴──「俺だい」
(同上)
お次は蟻。春になればどこにでもいる蟻。ぞろぞろとやけに一群になっている蟻。子どものころならば、せっせと食糧を運ぶ蟻をしゃがんで飽きもせず眺めていたものだけれど、大人になったら誰も目もくれない、蟻。存在しているのかいないのかさえふだんはわからない、蟻。けれどルナールは、そんじょそこらの子どもがおよびもつかないほど熱心に観察し、想像力を遊ばせています。
一匹一匹が、3という数字に似ている。
それも、いること、いること!
どれくらいかというと、333333333333……ああ、きりがない。
(同上)
3という数字に似ている──など、思わず笑ってしまうような、なるほどと手を打ちたくなるようなこの鮮やかなイメージはどこから湧いてくるのでしょう? ええ、それは「観察」です。好奇心と興味を向ける対象との無心の交感が、意外性に満ちた想像の世界の扉を開いてくれるのです。
では「ペット」はどうでしょう。フランスの寒い冬、飼い犬のポアンチュウが暖をとろうとあれこれ試みる様子をじっと観察しているルナール。その一文は、おかしくて、ホロリとさせる、珠玉の掌編さながらです。
膝で絞め殺されそうなのもものともせず、無理やり私たちの囲みを押し破って、とうとう煖炉(だんろ)の一角に辿たどり着く。
そこでしばらくぐずついた末に、とうとう薪台のそばへ坐り込むと、もうそれっきり動かない。彼は主人たちの顔をじっと見つめ、その眼つきがいかにも優しいので、こっちもつい叱れなくなってしまう。ただ、その代り、ほとんど真っ赤になっている薪台と、掻き寄せた灰が、彼の尻を焦がす。
(中略)
「さあ、あっちへ行って! 馬鹿だね、お前は!」
しかし、彼は頑張っている。で、野良犬どもの歯が寒さにがたがた震えている時刻に、ポアンチュウはぬくぬくと暖まり、毛を焦がし、尻を焼きながら、唸りたいのを我慢して、じっと泣き笑いをしている──眼にいっぱい涙を溜ためたまま……。
(同上)
飼い主あっての、犬や猫? いえいえ、きっと、そうではないのでしょう。ペットたちは、たまたま居合わせた環境で、彼らなりに思考と本能をフル稼働させて精一杯生きているのです。そういったもろもろのことに気づかせ、思いもよらない物語を閃かせてくれるのが、すなわち「観察」なのです。
『博物誌』全編のほぼ真ん中に位置する「蛇」の項は「長すぎる。」、ただこれだけ。有名な一文ですが、このたった5音からは不思議と、清閑な空気や、あきれたような、それでいて感心しているような心情が伺え、しまいには「すいません……」と申しわけなさげな蛇の様子さえ想像されてきます。この一文にかくも奥行が感じられるのは、読者がこの項に至るまでに、営々と築かれてきた『博物誌』の世界の魔法にいつのまにか捕らわれているからにほかなりません。
それにしても、観察と手近な動物たちとの対話によって世界をつくり上げていく作家の心境とは、いったいどのようなものなのでしょう。そういえば、フランス的なエスプリこそプチプチと弾けてはいるけれど、空気を飲み込み身近な生きものを一心に観察するルナールの姿は、どこか、自宅の庭で日がな自然観察に明け暮れ、蝶や鳥や猫の絵を描いた画家の熊谷守一を思い起こさせるものがあります。ジャンルこそ異なりますが、いずれの作家も無垢な生命力に満ち満ちた作品を遺したことは確かです。いわば観察は創造の母。そこから生まれてくる作品は、もはや技巧の云々を超えた、創り手の境地の結晶であるのかもしれません。ルナールは『博物誌』の終わりをこう結んでいます。
私は、自分の知らなければならぬことを学んでいる──
私はもう、過ぎ行く雲を眺めることを知っている。
私はまた、ひとところにじっとしていることもできる。
そして、黙っていることも、まずまず心得ている。
(同上)
深い4行です。小説を書く、エッセイを書く、あるいは詩を書くにしても、構想を得るまで、また、完成へと辿りつくまで、作家は思考と作為のなかを孤独に進んでいきます。ジュール・ルナールは、そのためのひとつの実りある方法──家の外に出、観察をし、言語化すること──を示してくれました。たとえそれが習作になったってかまわない。そんなつもりで取り組んだっていいのです。掌編ならば、いまならスマホで書くことだってできるはず。自室に籠城して書ける書けないと一喜一憂する日々を過ごすよりも、通学、通勤で目に入る景色、すれ違う人それぞれを観察し、たとえば一日一篇の「誰か」を描いてみることのほうがどれだけ実りある鍛錬となることでしょう。悪趣味? それはそうかもしれません。でもそのうちひとりの「誰か」が、のちの大作の主人公を務める可能性は否定できません。こうした外出と観察と創作の道を選ぶか、選ばないか、試してみるか──それは、作家になりたいあなた自身が決めることです。
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