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海には生命がある、海には冒険がある、海には神秘がある、そして海は壮大で深遠な物語を生み出す――。古今東西、豊饒の海はそのイメージに相応しい数多の物語を私たちに与えてきてくれました。海洋冒険小説などは思い起こすだけでもワクワクするジャンルであり、男性であるならば特に、少年の日に冒険心を掻き立てられた記憶をおもちなのではないでしょうか。『ロビンソン・クルーソー』や『宝島』、それから子どもたちの澄んだ笑顔が弾けるような『二十四の瞳』、初々しくも官能的な恋の物語『潮騒』などは、いかにも“海らしい”イメージにマッチした作品といえるでしょう。しかし、海の本質を、眩しさ、広大さ、神秘性、包容性、躍動感など決まり切ったイメージばかりに限定してしまうのは要注意。「想像力の欠如」とのそしりを受けかねません。世のなかには未知のものがごまんと存在しているわけですが、地球上でその最も豊かな収蔵庫のひとつが「海」なのですから。海が一般的なイメージとは隔たった主題の象徴として名作に描かれているのも、「むべなるかな」なのです。
アーネスト・ヘミングウェイの遺作『海流のなかの島々』は、彼の死後、原稿を発見した夫人によって世に送り出された生前未発表作です。己の姿や半生を色濃く写した、いわばひとつの自伝的集大成として書きながらも、ヘミングウェイ本人が発表しようとしなかった理由は、主人公トマス・ハドソンの息子が巨大なカジキマグロと格闘するエピソードを、『老人と海』という独立した作品として発表したためと言われています。メキシコ海流のなかに点在する島に住んだ主人公の、喜び、絶望、そして終焉の半生を描いた物語は、洋上のシーンのみを抜き出したことで、あたかも人生という主題が濃縮されたかのように、『老人と海』という不朽の一篇に生まれ変わったのでした。
老人は海を見渡して、今の自分がどれほど孤独かを思った。だが彼は、深く暗い水の中のプリズム、前方に延びたロープ、凪いだ海の奇妙なうねりを、眺めることができた。雲は貿易風によって成長していく。前方に目を向けると、海上に広がる空に、鴨の群れが飛ぶ様子がくっきりと刻まれて見えた。その姿はやがてぼやけ、そして再びくっきりと現れた。彼は、海の上では孤独な者などいないのだと思った。
海流の中心部に入っていけばどんな事が起こるか、彼にはよく分かっていた。だが、できることは何も無い。「いや、ある」彼は声に出して言った。「オールの握りの部分にナイフを括りつければいい」彼はその作業を、脇の下に舵棒を挟みながら行った。足では、帆の端に繋がれた帆綱を踏んで押さえている。「さあ」彼は言った。「相変わらずただの年寄りだ。だが、丸腰じゃないぞ」風は強くなり、船は良く走った。魚の上半身だけを見ていると、希望が少し蘇ってきた。
(アーネスト・ヘミングウェイ/石波杏訳『老人と海』青空文庫/2015年)
雄大な海を舞台に、巨大な魚との死闘を描いた物語の終わりを飾るのは、疲れ果てて眠る老人の見る夢、アフリカの河畔に佇むライオンの姿です。猛々しい海をあとにして陸にあがり、ライオンの夢を見るちっぽけな老人はどこか安らいで見えます。獲物を食い尽くされた老人が勝ち取ったものとはいったい何であったのか――と、読者が自然と海上のシーンに再び思い馳せるラストです。
たおやかな歓喜――とでも言おうか。海をすべってゆく鯨には、その迅速さにもかかわらず、悠揚せまらぬ壮麗さがあった。白い雄牛に変身して強奪したエウロペをその優雅な角にしがみつかせて海を泳ぎ去ったジュピター、その熱い流し目をたえず背中の乙女にそそぎながら、陶然とするような滑らかな迅速さをもって、波をかきわけて一心不乱にクレタ島の婚姻の臥所をめがけたジュピター――そのジュピターの雄姿、その至高の荘厳さでさえ――白鯨が神々しく海をゆく栄えある威容をしのぐものではなかったろう。
(ハーマン・メルヴィル/八木敏雄訳『白鯨』岩波書店/2004年)
ハーマン・メルヴィルの『白鯨』は海を舞台とした“神話”です。白鯨モービィ・ディックという強大な神、モービィ・ディックに立ち向かい敗れて海に沈んでいくエイハブ船長(旧約聖書で暴君として描かれるアハブ王)、壮絶な戦いの生き証人イシュマール(アブラハムの庶子イシュマエル)。その三者が神話の役割を演じる物語は、メルヴィルの捕鯨船乗組員としての悲惨な経験に基づいているといいます。『白鯨』がただの冒険物語ではないことは、鯨という海の神に魅せられたメルヴィルの博覧強記がこれでもかと詰め込まれている点に明らかです。そして、人間が太刀打ちできない絶対神モービィ・ディックを包み抱くものこそ、海という広大無辺の不可思議な世界なのです。
『暗夜行路』は、毀誉褒貶かまびすしい志賀直哉唯一の長編小説です。志賀直哉自身の姿を投影したといわれる主人公が、いつ終わるともしれない暗い行路をついに抜け出るまでが描かれる本作の舞台は、鳥取は大山(だいせん)。その深い自然に心癒されていく主人公がふと目にする遠い眼下の海の情景は、彼の心に淀むいっさいの「負」を、一瞬にして浄化してしまうほどの煌めきを放っています。
中の海の彼方(むこう)から海へ突出(つきだ)した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽(ひ)を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島(だいこんじま)にも陽が当り、それが赤鱏(あかえい)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟(けむり)が所々に見え始めた。
(志賀直哉『暗夜行路』新潮社/2004年)
もしかすると、人間にとっての海の本質とは、この『暗夜行路』のワンシーンに表現し尽くされているのかもしれません。海とは、人間とは相容れず、忽然として謎に満ちていて、それゆえに人間は、憧れてやまず求めてやまない“さまざま”を、そこに見るのではないでしょうか。
中上健次の『枯木灘』では海は不毛の象徴であり、イタリアの小説家ジョヴァンニ・ヴェルガの『マラヴォリア家の人々』では、シチリアの海が貧しく閉鎖的な漁村での暮らしと対比されていました。人間を包み、癒し、あるいは破滅させ、またあるときは傍観者のように素知らぬ顔をしている――まさしく千変万化、私たちに絶えず新たな普遍の世界を拓いてくれるのが、海です。
実際、海はどこで眺めても雄大なのに、その表情にはひとつとして同じものがないような気がします。ただ確かに言えるのは、海には未知の幾千万もの物語、幾千万もの言葉が眠っているということ。小説を書くにも、紀行文やエッセイを綴るにも、海は尽きせぬ源泉に違いありません。さて、あなたの目に映るのはどのような海でしょう。その海は、あなたにどのような物語をインスパイアしてくれるのでしょうか。まずは次の週末、どこかの海岸に出向き、それを確かめてみるのはどうですか?
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