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突然ですが、近ごろ、人は「手紙」というものをさっぱり書かなくなってしまったようです。現代の全世界を巡るメールの配信数でいえば、かつての手紙の量をはるかに超えている――ですって? いえいえ、「メール」は所用や気もちを伝える文書の類に違いありませんが、その趣は「手紙」とは甚だかけ離れていると誰もが感じているはずです。
そもそも「手紙」とは、書き手が素直な思いを綴ってその人となりをも映しだす「鏡」であったはずなのです。古来、人は実にたくさんの手紙を書きました。それはほかに伝達手段がなかったからというばかりではなく、手紙を通じて己を表現することに、ある意味美学的な陶酔感や充足感を覚えていたというのも理由ではないでしょうか。詩人の谷川俊太郎は、哲学者の父徹三と母とのあいだで交わされた恋文を、かけがえのない思い出として一冊にまとめました(『母の恋文 谷川徹三・多喜子の手紙』新潮社/1997年)。サルトルは、終生の伴侶ボーヴォワールに、戦地から夥しい愛の言葉を送りました(『ボーヴォワールへの手紙』人文書院/1988年)。かくして手紙は独特なる表現媒体として、創作とはまた違う書き手の表情を見せる書籍ジャンルとして成立することになったのです。
「小生は人に手紙をかく事と人から手紙をもらふ事が大好きである」という一文は、夏目漱石が弟子の森田草平に宛てた手紙のなかに書かれたもの。その言葉どおり、かの文豪は生涯に2500通以上の手紙を綴り、書簡集も刊行されています。宛名は親友、門下生たち、同世代の文士、文壇の後輩、妻子、読者……と多方面に亘り、自他ともに認める筆マメぶりと、小説からは読み解けない活き活きとした作家像をいまに伝えています。
明治22年、22歳の夏目金之助は、東大予備門予科で出会った正岡子規から彼の筆名のひとつ「漱石」を譲り受けるという縁を得ます。子規の死まで、十余年に亘る友情の始まりでした。子規はこのときすでに結核に冒されていたのですが、漱石が子規の病状を案じて自分の下宿に招いて静養させた逸話も残っています。そこは漱石が中学教師として赴任していた、正岡子規の故郷・松山。故郷は少しでも親友の心を癒すだろうという、漱石の心遣いが感じられます。しかし病状は悪化の一途を辿り、明治34年、いよいよ死期を悟った子規は力を振り絞って一通の手紙を書き上げます。それが、ロンドン国費留学中の漱石に宛てた最後の手紙となりました。
僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。ソレガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ開イテイルウチニ今一度一便ヨコシテクレヌカ(無理な注文だが)
(正岡子規/夏目漱石宛/明治34年11月6日『漱石・子規 往復書簡集 和田茂樹編』岩波書店/2002年)
漱石は子規の願いに応えられませんでした。ロンドン生活に馴染めず留学の成果もはかばかしくなく、激しい神経衰弱に陥った心身の不調が原因でした。翌年漱石はロンドンで子規の訃報に接しますが、子規の最後の手紙に返信しなかったことへの慙愧の念、後悔にのちのちまで囚われたことでしょう。それから数年後の明治39年、漱石は出版の日を迎えた『吾輩は猫である』の序に、ある一文を綴ります。
子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云うか知らぬ。或は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事が左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたと云うから、余も亦「猫」を碣頭に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。
(夏目漱石『夏目漱石全集第十巻』筑摩書房/1972年)
それは、子規の最後の手紙に応えられなかった詫び状ともとれる哀悼文でした。「倫敦消息は読みたいが『猫』は御免だと逃げるかも分らない」というところに、友の人物を知る文豪の情愛と寂寥がにじみ出ています。
漱石と彼の門下生たちのあいだにも、心の通った書状が数多行き交いました。漱石が晩年の10年間を過ごした借家は「漱石山房」と名づけられましたが、数々の名作が生み出されたこの漱石山房には、門下生や文士が集い文学談義に花が咲きました。作家の出久根達郎は、自著『漱石先生の手紙』(講談社/2004年)に「漱石は、人生の教師でした。日本で最高最大の教師でした。それは漱石の手紙を読むと、よくわかります。(中略)私たちに、『人は生くるに、かくあるべき』という教えを、手紙でわかりやすく、様々に説いてくれた、世情に通じた教師でした」と記していますが、弟子たち、後輩たちに送った手紙は、実際、漱石の教師としての優れた資質を窺わせます。
僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものと思つてゐた。旨いものが食へると思つてゐた。綺麗な着物がきられると思つてゐた。詩的に生活が出來てうつくしい細君がもてゝ。うつくしい家庭が出來ると思つてゐた。
もし出來なければどうかして得たいと思つてゐた。換言すれば是等の反對を出來る丈避け樣としてゐた。然る所世の中に居るうちはどこをどう避けてもそんな所はない。世の中は自己の想像とは全く正反對の現象でうづまつてゐる。(中略)
僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰拔文學者の樣な氣がしてならん。
(夏目漱石/鈴木三重吉宛/明治39年10月26日『漱石全集第十八巻』漱石全集刊行会/1928年)
牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老獪なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。あせっては不可(いけ)ません。頭を悪くしては不可ません。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。(中略)牛は超然として押して行くのです。
(夏目漱石/芥川龍之介・久米正雄宛/大正5年8月24日『漱石書簡集 三好行雄編』岩波書店/1990年)
芥川龍之介は、漱石山房に出入りし幾度か手紙のやり取りをしたという間柄で、夏目漱石の門下生とはいえないかもしれませんが、漱石の葬儀当日の一日について綴った彼の小編『葬儀記』を読むと、漱石をどれほど敬愛していたか、その死にどれほど衝撃を受けたかがよくわかります。夏目漱石は神経過敏で陰鬱な人柄だったといわれていますが、後輩たちに優しく面倒見のよい一面をもっていたことは確かなのでしょう。そんな作家の人物像を、小説よりも随筆よりも如実に伝える「作品」こそ、特定の相手に宛てて書かれた「手紙」なのです。手紙とは、ただの数枚の文書ではなく、相手との心のやり取りのなかから生まれた言葉を刻む「真実の作品」なのです。
作家になりたいと志を抱いているあなた。たまにはLINEやメールではなく、手紙を書いてみませんか。さすればおのずと書く相手を選ぶことでしょう。その相手を思い浮かべ、本当に自分が伝えたいことを考え、一語一句を吟味して心を込めてしたためる、「手紙」です。ひょっとすると、思いもよらないあなたの筆のもち味に気づかせ、執筆、創作に新たな地平を拓いてくれるのは、そんな一通の手紙かもしれませんよ。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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