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「デモーニッシュ」という言葉があります。そのまま訳せば「悪魔的」という意味ですが、そういえば、藤子不二夫の『怪物くん』で怪物ランドの王子が闘う組織が、その名も「デモーニッシュ」でした。思わず怪物軍団と悪魔軍団がくんずほぐれつする大乱闘の図を想像してしまいます……。しかしそんな悪魔軍団の騒々しさはどこへやら、文学や芸術の枠のなかとなると、この言葉の微妙かつ深遠なニュアンス感は俄然増し、「デモーニッシュ」=「悪魔的」で済ませてしまってはいささか単純に過ぎるということになります。「デモーニッシュ」は、さまざまな芸術作品、物語や人物の性格に複雑かつ色濃い陰翳を与え、象徴的な意味合いさえもつ、キラリと光る「キーワード」といっても過言ではないのです。
モーツァルトの音楽を評するとき、「デモーニッシュ」という表現が用いられることがありますが、その意味は、「突然であること、計算不可能であること、悟性によるコントロールができないこと」とされています。要するに、“予想のできない、得体の知れない、魅惑的なもの”などと解釈すればよいでしょうか。また、「デモーニッシュ」は、著名な芸術家たちの終生のテーマにも深い関わりをもってきました。たとえば、「デモーニッシュ」に取りつかれるように生き、創作の筆を揮ってきたのは、ドイツが生んだ詩人にして小説家、ゲーテです。
「デモーニッシュなものとは」と彼(ゲーテ)はいった、「悟性や理性では解き明かしえないもののことだ。生来私の性格にはそれはないのだが、私はそれに支配されている。」
(エッカーマン・著/ 山下肇・訳『ゲーテとの対話(中)』/岩波書店/1969年)
「はじめはほとんどきのりしないまま着手したのだったが、そのうちデモーニッシュなものにとらえられ、とうとうやめられなくなってしまったのだ。」
「そういう力に従われたのはよいことでした」と私はいった、「と申しますのは、デモーニッシュなものはたいへん力が強いですから、終りを全うするまで離れないように思えますもの。」
「ただ人間は」とゲーテは応じた、「デモーニッシュなものにたいして、決然と対抗しつづけるよう努めなければいけないのだ。
(同上)
ゲーテの生涯をかけた大作『ファウスト』には「メフィストフェレス」という悪魔が出てきますが、ゲーテは「メフィストフェレス」を「デモーニッシュ」とは考えていませんでした。「デモーニッシュ」と宗教上の悪魔はあくまで別物、と分けていたのです。それに、彼がもし悪魔への畏怖心から「デモーニッシュ」に憑りつかれていたならば、そこには少なくとも敬虔な信仰心の根があるはずですが、ゲーテはキリスト教会に敬意を抱く信徒ではありませんでした。そもそも、ただの宗教心から生涯を徹した文学的主題をもつなど、ゲーテほどの稀代の大作家にはあり得ないことです。ゲーテには自然科学者としての顔もありますが、むしろ哲学者、汎神論者としての彼こそが、人間の内なる「デモーニッシュ」を追究していったのではないかと想像されます。
同じように、人間の内なる資質としての「デモーニッシュ」に着目した歴史的大家がいます。それはロシアの文豪フョードル・ドストエフスキー。ドストエフスキーは、まず「デモーニッシュ」の原型のようなキャラクターとして、『罪と罰』のラスコーリニコフを創造しました。さらに、人間の闇と複雑さと矛盾を突きつめ、その核を体現する人物として生みだしたのが、最期の大作『カラマーゾフの兄弟』の次男イヴァン(イワン)です。
「イワン! もう一ぺん、最後にきっぱり言ってくれ、神は有るものか無いものか? これが最後だ!」
「最後でもなんでも、無いものは無いのです」
「それじゃ、誰が人間を愚弄しおるのだ、イワン?」
「きっと悪魔でしょうよ」と言って、イワン・フョードロヴィッチはにやりとした。
「じゃ、悪魔はあるのか?」
「いや、悪魔もありませんよ」
(ドストエーフスキイ・著/中山省三郎・訳『カラマゾフの兄弟(上巻)』角川書店/1975年)
カラマーゾフ家の三兄弟はまったく異なる性格をもっています。冷たい刃物のような理論で純真な三男を追いつめていくイヴァンは、粗暴な長兄とは対照的な理性派で、心に闇を抱きながら神を論じる理論家です。みずからの理論の正しさを信じて疑わないイヴァンは、主役のひとりではありますが、どこか狂言まわし的役割を担って物語の主題を追求していきます。主題とは、どのような人間、立場であれ、果たして人が人に赦しを与えられるのか――ということであり、祖国で反逆者として捕らえられ、死刑判決まで受けたドストエフスキー自身の苦悩の叫びに重なるような気がします。そして、この主題の問いかけにイヴァンは真っ向から反論します。それすなわちキリスト教への反論というわけで、デモーニッシュなイヴァンの像が一際鮮やかに浮かび上がるのでした。
フランス革命後のパリを生き、創作にも恋愛にも人生にも巨大な熱量を絶やすことなく投じつづけた作家、オノレ・ド・バルザック。彼は、実に100篇にもおよぶ『人間喜劇』というシリーズ作品群を“生産”しました。そんなバルザックが、みずから編みだした「人物再登場法」を用いて創作した、この「人間喜劇」の小説集に最多登場している愛蔵っ子がいます。その名は「ヴォートラン」。筋金入りのデモーニッシュなキャラクターです。
ヴォートランの思想は、まるで迫撃砲の発射の誘導計算の数学的法則にも比肩されるような正確無比の法則でもって、それを送り込まれた頭脳に強烈な印象を与えようとしていた。攻撃の多様さがまた効果的だった。たとえば一見穏やかなタイプの戦略がある。それは相手の内部に思想として留まり、やがて相手の心を内側から荒廃させる。またうって変わって、堅固な要塞に守られた頭脳を備えて厳しい対決姿勢を示すこともある。そんな時、相手の意志は分厚い城壁を前にした大砲の弾のように砕け落ちてしまう。
(バルザック・著/中島英之・訳『ゴリオ爺さん』/青空文庫)
ヴォートランは盗人ですが、ただ盗みを働くのではなく、人間たちを弄びます。彼らの弱さにつけ込み、欺瞞を抉りだして悪を唆し、破滅へと追いやるのです。悲嘆と絶望をもたらし、予言者であり執行者であるヴォートランには確かに、人間を超越した存在(つまり悪魔)の意も託されているのでしょう。そんなヴォートランがふと垣間見せる人間臭い表情は魅力的です。けれど、それさえまやかし、悪の罠や気まぐれのように見えて、その心の内は測りしれません。悪の権化ヴォートランは、途方もない作家が生みだした無二のキャラクターとして、文学史上特異な存在感を放っています。
私たちは、ひょっとすると“言葉”に対して先入観をもち過ぎているのかもしれません。「デモーニッシュ」とは、要は使い手の感性と解釈次第、でさまざまな意味をもち得る言葉ですが、これを「悪魔的」とお仕着せの和訳表現をそのまま借りて終わらせてしまっては、文学にも芸術にも、微妙・繊細・深遠・鋭利な内容物は望めなくなってしまうでしょう。また、そうした言葉は何も「デモーニッシュ」には限らないはず。普段何げなく用いている言葉の奥行きや可能性を考えてみることも、作家になるための修業として大切でしょう。言葉に対する感覚は、いくら磨き上げてもそれで充分ということはありません。「デモーニッシュ」は、小説を書くにも詩を書くにも、言葉を見つめ直すという角度から創作に光を当ててくれる、ミステリアスにして魅惑的なキーワードなのです。
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