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「どくとるマンボウ」と呼ばれた北杜夫。歌人斎藤茂吉の次男であり、自身医学博士であります。――とくれば、当然エリートだろうと思いきや、一歩も進まずに三歩下がるような躓きだらけの青春期があり、気宇壮大と陰々滅滅を季節ごとに行ったり来たりする躁鬱病患者でもありました(夏は躁、冬は鬱であったとか)。氏はまた芥川賞を受賞した小説家でもありますが(1960年上半期)、むしろ人気が高くタイトル数も断然多いのは、ユーモラスなエッセイ作品です。2011年に84歳で他界した北氏は、その面では「過去の人」と呼ぶことができます。実際、氏を知らない若い世代も多いことでしょう。ところが、ここにちょっと不思議な現象が見られるのです。
忘れ去られてゆく多くの作家の本が書店から姿を消しているのに引き換え、北氏の著書はいまも書棚に並び、さらには「北杜夫」と書かれたネームプレートまで刺さり書棚の一区画を占めているこの事実。しかもそれがたまたま見かけた一店舗だけなら、熱烈な北杜夫ファンの中高年店長が采配を揮う店なのねと理解しますが、どっこい全国津々浦々の書店に見られる傾向なのですから、アラ不思議。
まァ要するに、氏の愛好家が絶えるどころか減ることなく、令和の時代も元気に存在しているという証なのでしょう。それにしても、時代を超え、世代を超えてなぜ――? 自身の死後もファンが絶えないというのは、かなり作家冥利に尽きる状態じゃないですか。その境遇を思い浮かべ、作家になりたい、エッセイストになりたいなァと天を仰ぎ見るあなた。北杜夫を題材に深掘りしてみれば、きっとユーモアエッセイや小説を書くための重大な秘密に触れられるに違いありません。
北氏のエッセイは膨大な数にのぼりますから、代表的な1冊を選んでその秘密に迫るのが良策です。ということで、氏のエッセイで最も売れ、いまもなお売れつづけている、1960年出版の初エッセイ『どくとるマンボウ航海記』を引っぱり出すとします。「マンボウ」登場のまさしく記念碑的作品で、日本ユーモアエッセイ界の金字塔として輝くこの一作は、1958年、インド洋からヨーロッパを巡る水産庁の漁業調査船に船医として乗り込んだ北氏の、5か月半にわたる“海ときどき陸(おか)”の日々を綴っています。伝説的なその書き出しは、こうです。
マダガスカル島にはアタオコロイノナという神さまみたいなものがいるが、これは土人の言葉で「何だか変てこりんなもの」というくらいの意味である。私の友人にはこのアタオコロイノナの息吹きのかかったにちがいない男がかなりいる。一人は忍術を修行しようとして壁に駆けのぼり、墜落して尾骶骨にヒビをいらした。一人はリンゴを三十八個むさぼり食って自殺を企てた。一人は学者としておとなしく講義でもしていればいいのに、スパイになりたくて汲々としている。 こういう連中がいなかったなら、私は船になんぞ乗らなかったかも知れない。
(北杜夫『どくとるマンボウ航海記』新潮社/1965年)
※一部、現代では不適切と考えられる表現が含まれていますが原文のまま引用しています。
アタオコロイノナという謎の神を畏怖する北氏の人間に隠しようもなく匂うのは、稚気。少年のころから昆虫に目のなかった(食べる意味ではなく)北杜夫は、昆虫学者になりたいと真剣に考えていました。しかし、それを病院長でもあった斎藤茂吉に恐る恐る告げたところ、鬼のようなカミナリが落とされたといいます。そこで本当に本当に仕方なく医大に入り勤務医になるわけですが、あるとき、船医募集の広告を目にするや、矢も盾も止まらず応募してしまいます。しかしそこには、ほんの少し複雑な裏事情もありました。昆虫学者の夢破れた北でしたが、傷心の胸に芽吹き、いつしか我が道として見定めつつあったのが、“小説を書くこと”でした。ヨーロッパ航海船に乗り込んだのも、実は構想していた小説に関係するドイツに行ってみたいという、ちょっとまじめな(でも本筋からすると大きく逸れた)動機もあったのでした。こうして、海上にのんきに浮かぶマンボウに我が身を重ねた「どくとるマンボウ」氏の、史上最大に行き当たりばったりな船医としての日々がはじまります。
『どくとるマンボウ航海記』について、北氏は「あとがき」でこんなふうに語っています。
私はこの本の中で、大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らないこと、書いても書かなくても変りはないが書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした。
謙遜でもシャレでもなく、氏はその言葉どおり、おみくじを慎重に選び取るように「くだらぬこと」だけ抜き出して、我が意を得たりとばかりに自由奔放にエッセイを綴っていきました。それはなぜか? ここに、ひとつ大事なものとして挙げるべきキーワードがあります。それは「ハニカミ」。氏はこの作品のなかで、漁業調査船乗船の動機に小説に関係するシリアスな思いがあったことは伏せていました。それは、彼のうちなる思いが「カンジンなこと」だったからです。「くだらぬこと」ではなかったからです。ハニカミとはいわば精神上の美学。別にこの動機をオープンにしたところで、氏の筆をもってすればそれも笑える話にすることはできたはずです。しかしそれをしない北の作品だからこそ、読者はユーモアジャンルにおけるハニカミという美学を肌に感じ、そこはかとない好感を覚えるものなのかもしれません。ハニカムところとハニカマないところを厳密に分かち、一方を隠して一方を衆人に晒す――これぞユーモアエッセイの普遍的な、必修メソッドなのです。
大人の美学「ハニカミ」と子どもの心「稚気」。それらのフロマージュが醸す上質なユーモアとは、つくりものではダメ、借りものもダメ、計算してもダメ。唯一それを呼び込むことができるのは、一生懸命何かを楽しむ心だけなのかもしれません。机上で捻り出したユーモアでは心からの笑いは誘えない―――となれば、本稿を読み終えたあなたは、このあといったい何をしますか? ここで目を白黒させているようではいけませんよ。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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