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作家志望者のみならず、“書く”ことに楽しさを感じている人が、小説よりもずっと気軽に親しんでいるのがエッセイというジャンルになるでしょうか。逆にいえば、日常と地続きであるような親しみやすさが、エッセイのひとつの大きな魅力ともいえます。「小説」となると、いくらか文章を書くことに慣れた人でも、作品が内包すべき文学性や芸術性といったものを壁のように感じ、ひょっとするとたじろぐ部分があるのかもしれませんね。あるいは物語を構築する延々とつづく作業を目前にすると、面倒に思う気持ちが働くのかもしれません。で、翻ってエッセイ。たしかに日々のトピックスをオムニバス状に綴れば一連の“読みもの”にはなります。ですが、“読むに足るエッセイ”となると、話はちょっと違います。誰かが読んで興趣を覚えるエッセイが、ノウハウ不要の誰にでも書けるものかというと、もちろんそんなことはないのです。えてしてアマチュア作家は、とっておきのエピソードや珍しい体験談があれば即おもしいエッセイができあがると考えがちですが、素材だけで成り立たないのは料理と同じこと。エッセイを書くにも調理法や味付けに大いなる創意が必要なのです。「調理法」とは要するに「書き方」、「味付け」は「書き手のもち味」というところでしょうか。
著名人による作品や時事ネタ、専門的なノウハウや啓蒙性を軸とするものを別にすると、人気上位に常にランクされるエッセイのひとつに、ユーモアやウィットの効いた一群があります。文章のユーモアは必ずしも書き手の性格に一致しているわけでなく、一見無口で陰性の人間の文章が驚くほど弾けたユーモアを具えるということはままあります。要するにユーモアは磨かれていくもの。かのエジソンの有名な箴言を引くなら「1%のひらめきと99%の努力」。誰にだって福の神が降臨したごときユーモアエッセイを書くことは可能なのです。つまり、著名でもなく、何かの道にずば抜けて長けているわけでもない“ほとんどのエッセイ執筆者”の目指すべき方角はここになります。
ロシア語同時通訳・作家の米原万里の書評集『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋刊/2009年)に最多登場している東海林さだお氏。その、のほほんととぼけたエッセイの息長い人気は誰もが知るところです。「ドーダ学」(「ドーダ」とは「俺はこんなにエライんだぞ。ドーダ」の「ドーダ」)の大家である氏は、しかつめらしく“エッセイの書き方”を説いたりはしません。長年の研究成果を発表すべく『もっとコロッケな日本語を』を著し、文章の書き方について軽ーく、ユルーく語っています。スルメを噛むように作品を味わうファンが多いのがエッセイ。そんなファンを対象に優れたエッセイというのは、いかにも気の向くまま自由に書かれているようでいて、その実読者の目を意識し考えることを怠らない、と氏。目指すのは“お肉屋さんのコロッケみたいな文章”。そして肉が少し、ジャガイモがホクホクと詰まっているそんな文章にするには、まず何においても「出だし」を短く一文で決めること、と無二のノウハウを伝授します。
「人間に限らず、動物の世界にもドーダはある。」
「突然ではありますが、人はなぜカバンに憧れるのでしょう。」
「ぼくは、魚を『おろす』という作業にどういうわけか心惹かれる。」
「今回は『カツカレーの正しい食べ方』です。」
(東海林さだお『もっとコロッケな日本語を』文藝春秋/2006年)
ドーダ!「あれあれ? それはいったいどういうコト!?」とドギマギして身をよじるような掴みの一文が並んでいるではないですか。これこそが、美味しい「コロッケエッセイ」の助走なのです。
いっぽう、御歳90を超えて、キレのいい、というよりは有無をいわせぬ堂々たるユーモアでベストセラーランクインを果たすのは佐藤愛子。大正生まれの女傑は、瞬間湯沸かし器というよりは、囲炉裏にかけた鉄瓶のごとくのべつまくなし怒っていて、その怒る自分自身をユーモラスに描いたエッセイが根強く幅広くファンに支持されています。
「90といえば卒寿というんですか。まあ!(感きわまった感嘆詞)おめでとうございます。白寿を目ざしてどうか頑張って下さいませ」
満面の笑みと共にそんな挨拶をされると、「はあ…有難うございます….」
これも浮世の義理。と思ってそう答えはするけれど内心は、「卒寿?ナニがめでてえ!」と思っている。
(佐藤愛子『90歳。何がめでたい』小学館/2016年)
世間というのは通り一遍の見方をするもの、歯が浮くような社交辞令や世辞を易々と口にするもの。そんな風潮に迎合しない90歳は筋金入りの真っ正直を貫き、懐深いユーモアでくるんでいるのでした。
近ごろだと、ブログで日記を書かれている方も多いかと思います。日記形式の紀行文などもよく書かれているようです。手書きの日記より読者を意識するという点で、多少はエッセイ寄りになるからでしょうか、ブログをもとに本をつくりたいと思う人も増えているようです。しかして、そんなブロガーがしばしば失念の面持ちなのは、日記形式の作品が、真に“日々の記録以上のもの”でないとするなら、それを第三者が読んでおもしろいはずはない、ということ。日記文学を「文学」足らしめているのは、日記形式であるがゆえの、日記形式で書かなくてはならない必然性です。ブログを書籍化する際には、そのことを自覚した上での変換作業が必要なのです。たとえば旅行記を「〇月×日 15:40飛行機は成田空港を定刻に出発。2時間くらいして夕食の機内サービス。空腹ではないが無理やり詰め込む。献立は焼いたチキンと蒸し野菜、デザートはチョコケーキ(甘い)。21:00頃消灯。眠くなかったがいつの間にか寝ていた」という調子で延々書かれても、読み手の感興はむしろ強張るばかりでしょう。
澁澤龍彦の『滞欧日記』は、本にすることを念頭に書かれたものではなく、澁澤の死後見つかった渡欧中の日付入りメモを編集した一冊です。その意味では、日記文学以上に日記寄りの、まさしく肉声と真情を綴る無防備な日記そのものなのです。しかし文中各所に見られる〈瞬時に対象を客観的に捉える眼〉、といってもジャーナリストとは明らかに異なる〈その場所の空気感を見通すような深い眼差し〉、加えて彼の〈簡潔にして的確な描写力〉には驚くばかりです。
たしかにヴェニスは、安ピカ物の古びた、大時代的な感じの町である。骨董屋多し。何軒か、ひやかして歩く。かびが生えそうな、じめじめした石の町。水が石の階段に、ひたひたと寄せている。ポーターばかりでなく、手押し車が唯一の運搬具である。車が全くいない町。
夜は近所のレストランへ出かける。小降りの雨。バルセロナの町は、スペインの或る一面をきわめて尖鋭に反映しているようなところがあり、意外に気に入る。色で言えば黒の感じ。マドリッドの赤あるいは金に対して。道路の道はばは広く、古い建物がつらなっている。
(澁澤龍彦『滞欧日記』河出書房新社/1999年)
いっぽう数学者の藤原正彦は、イギリス滞在記で自身の心の内を冷静に眺めつつ、文化的・風俗的考察を交えて時代や国柄を切り取っています。
若い頃アメリカの大学で教えていたから、アメリカ英語には慣れていたが、それとは似ても似つかぬものだった。リンガフォンのイギリス語版や、何度か話したことのあるイギリス人数学者達の英語とも、まるで違っていた。比較的に一様なアメリカ英語とは対照的に、イギリスでは地域、階級により英語が異なる、と聞いていたが、現実の差異は想像以上だった。運転手のひどくギクシャクした英語は、次第に私の頭を雑音のように素通りし始め、異国の地を踏んで高揚していた気持ちを、少しずつ沈ませていった。
(藤原正彦『遥かなるケンブリッジ ―数学者のイギリス』新潮社/1994年)
同じ滞在日記というジャンルでも、それぞれに異なるアプローチがあり、作者ならではの“atmosphere”が醸し出されていることがわかります。
最後に、日本の近現代日記文学の嚆矢、森鴎外『独逸日記』を挙げて〆ましょう。その生涯、日記を書きつづけていた鴎外。『独逸日記』は1884年から1888年まで、およそ3年半に亘るドイツ留学記です。鴎外の留学は、陸軍所属の軍医としてドイツの衛生制度を調査するためで、日記には日本人を蔑む欧州人に憤激、反論する意気盛んな青年鴎外の姿が見られます。鴎外の留学は、時代といい目的といい、遊学とはほど遠いものでしたが、作中においては、生気に満ちた若者像が不意に光のなかに踏み出したように現れ、読み手をしばしばはっとさせます。
八日。(中略)此日街上を見るに、仮面を戴き、奇怪なる装をなしたる男女、絡繹織るが如し。蓋し一月七日より今月九日 Aschermittwoch に至る間はいわゆる謝肉祭 Carneval なり。「カルネ、ワレ」は伊太利の語、肉よりさらばといふ義なり。我旧時の盆踊に伯仲す。(中略)後中央会堂に至る。仮面舞盛を極む。余もまた大鼻の仮面を購ひ、被りて場に臨む。一少女の白地に縁紋ある衣装を着、黒き仮面を蒙りたるありて余に舞踏を勧む。余の曰く。余は外国人なり。舞踏すること能はず。女の曰く。然らば請ふ来りて供に一杯を傾けんことをと。余女を拉いて一卓に就き、酒を呼びて興を尽くす。帰途女を導いて其家の戸外に至る。
(森鴎外『独逸日記/小倉日記』筑摩書房/1996年)
ところは一世紀以上前のミュンヘン、鴎外は若々しく高揚する自身の姿と、喧騒と熱気に溢れたカーニバルの様子を一幕の場景に描き出していて、あたかも物語の序章を思わせます。100年の昔、若き日の文豪のこの日記は、日記文学の何たるかを教え、ひいてはブログや旅日記に文学的味わいを加えるヒントを与えてくれるのではないでしょうか。
鴎外に限らず、優れたエッセイ、おもしろいエッセイを読んでいると、ひとつ気づかされることがあります。それは、自らをおもしろおかしく語るにせよ、自身の旅の心境を率直に語るにせよ、それぞれのエッセイ内における作家自身の姿は、徹底して客観的に捉え表現されているということです。そこを踏まえ本稿を総括するならば、エッセイを書くための基本要項は、どのように書くか、どのように味付けるか、そしてそれにも増して重要な、いかに客観性を保つか――というところにありそうです。読み手を惹きつけるエッセイのなかには、書き手の作家であって作家でない、“もう一人の作家”が存在する――そういってよいのではないでしょうか。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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