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自分史、自叙伝、伝記、半生記、一代記。その名は幾種類もありますが、要するにひとりの人間の生きた軌跡を記し留めたノンフィクションをそう呼びます。描かれる対象は偉人や著名人ばかりとは限りません。たとえ市井の人であったとしても、侮るなかれ、「事実は小説より奇なり」と断じたバイロンは偉大です。実人生とは人間の想像力を超えたドラマをまま内包するものであり、「私なんか平々凡々な一生よぅ」とひとりごちる人のそれにだって、波瀾のドラマは潜んでいるのです。しかししかし、一般人の自叙伝・伝記となると、そうそうおもしろい作品には出会えないのも事実。それはなぜか? 素材である人生そのものの差? いいえいいえ、違います。“書き方”の差、なのです。
アマチュアの書き手の自分史作品や伝記の多くに共通する問題点は、書き方が「素直すぎる」ということ。自分の記憶や実感が先立って、それに正確であろうとするゆえか、水も漏らさぬ時系列に、起きた出来事は逐一、と素直かつ事細かであり過ぎるのです。出生証明書に重ねて遺す個人年表でもあるならいざ知らず、仮にも一篇の人生物語として書き上げるならば、楽しんで読んでもらおうとする配慮が欲しいものです。杓子定規な人生記をドラマティックで含蓄ある物語として生まれ変わらせることができるのは、これすべて“書き方”。それを学ぶ格好のテキストが“あの文豪”の著書にあります。
渋江抽斎(しぶえ-ちゅうさい)は幕末の医師・考証家で、森鴎外がその伝記を著すまでは歴史上ほぼ無名の存在でした。鴎外にしても、初めから伝記を書くつもりで歴史に埋もれた偉人に改めてスポットを当てたわけではありません。古書店で偶然その名に目を留め、次第に興味を募らせていくうち、いつしか抽斎の人生を辿ることになっていたのです。伝記作家ではなかった鴎外、しかし優れた小説家であった鴎外の筆の筋道があればこそ、伝記『渋江抽斎』は新鮮な発想に満ち満ちた優れたテキストとなり得たのでしょう。といって、本書を書くために、鴎外はことさらに先鋭的な方策を講じたりはしません。興味を惹かれた未知のものに出会ったときに、私たちがとるであろう行動と同じ、つまり情報を集めたり人に訊いたりということを繰り返しながら、一歩一歩、抽斎の人物像に近づいていったのです。
各種物語の例に洩れず、まず肝要なのは書き出しです。「1948年〇〇県〇〇郡〇〇町の代々農家を営む家に生まれた。4人兄弟の末っ子で少し歳が離れているため、兄たちにはあまり相手にしてもらえなかったが、祖父母特に祖母には大変かわいがられ……」という調子で記憶をコピーするごとく記述を連ねては、読み手は退屈の余り死んでしまうかもしれません。伝記はもちろん自伝であっても、読者の存在に留意した作品を書こうとするならば、新たな自分に出会うつもりで探索の過程を示していく姿勢が重要となります。ゆえに、その意味でも書き出しには創意を凝らしたいところです。
三十七年如一瞬。学医伝業薄才伸。栄枯窮達任天命。安楽換銭不患貧。これは渋江抽斎の述志の詩である。想うに天保十二年の暮に作ったものであろう。弘前の城主津軽順承の定府の医官で、当時近習詰になっていた。しかし隠居附にせられて、主に柳島にあった信順の館へ出仕することになっていた。父允成が致仕して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏縫を喪ってから十二年、父を失ってから四年になっている。(略)
抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見すれば、抽斎はその貧に安んじて、自家の材能を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。(略)久しく修養を積んで、内に恃む所のある作者は、身を困苦の中に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。
(森鴎外『渋江抽斎』岩波書店/1999年)
鴎外は抽斎壮年期の詩を枕として、この作品をはじめています。そして冒頭の詩に抽斎の人物像のヒントを託し、ここから“貧に屈し志伸びずともそこに安楽を得ていた人物像”を明らかにする過程を綴っていくのです。読み手に、被写体・抽斎にまつわる幾ばくかの知識を与え、しっかりと興味を喚起しておいてから先へと誘ってゆく。実に効果的な導入部といえましょう。
ところが次章以降、読者は意表を突かれます。鴎外が語り手である自分を作中に登場させ、抽斎の足取りをどのように追っていったかという、作家による探索のドキュメントを紡ぎはじめるからです。つまり『渋江抽斎』は、鴎外自身の調査進捗の過程と、抽斎の人生の道のりとが交差して、時間差的・平行的に書き進められていったのでした。
然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々考証を記すに当って抽斎云としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江氏蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確かめようと思い立った。
わたくしは友人、就中東北地方から出た友人に逢うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣って問い合せた。
作中で抽斎の人生が形を現しはじめるのは、鴎外が重要な手掛かりに行き着いてからです。その“手掛かり”とは、上記の地道な人捜しによる成果――抽斎をよく知る人物との出会いでした。この人物が語る抽斎にまつわる思い出・記憶の糸によって、渋江抽斎の人生記は織りなされて行きます。作品冒頭の詩が浮かび上がらせた、“貧に屈し志伸びずともそこに安楽を得ていた人物像”。それが次第に血肉を伴って立ち現れていく感触を、鴎外はひしひしと感じたことでしょう。
オロスコピイは人の生れた時の星象を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿を数えて見たい。しかし観察が徒に汎きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。
このくだりで、鴎外は伝記執筆のもうひとつ重要なポイントを教えてくれています。本書執筆の試みとして「学問芸術界の列宿(天空に連なる星座)を数えてみたい」と述べられていますが、彼は抽斎を中心とした人物相関図を思い描き、その周辺人物ひとりひとりを精査してみたのです。すると、ひとつの“謎”に行きあたります。それは、抽斎の師にあたる人物が、嫡子であるにも関わらず、なぜ家を出たのかという問題でした。鴎外はそこを勘所と見なし、作品のドラマティックな仕掛けとして採用したのでした。
他人の人生、ましてや長い時間の向こうの人物の一生など、測り知れないもの。そのなかには当然のように“謎”が潜むものです。こうした部分にスポットを当てることで作品には求心力が生まれ、伝記は物語として豊かなふくらみをも獲得します。
ノンフィクション作品を書くなかで忘れずにおきたいのは、想像力や洞察力が“事実”と“事実”を繋ぐということ。先述のようにアマチュア作家は事実に忠実であろうとするあまり平板な記述に陥りがちです。が、一歩引いて、“間違いのない事実”に固執せず、作者なりの解釈や推測といった要素――事実と想像される記――を織り込んでいくことで作品には陰影が生まれます。それはノンフィクション作品を“創る”上での必須のテクニックともいえます。もとより、過去の出来事や人間模様のそのすべてを、揺るぎない真実と言い切ることなど誰にもできません。それでも作家としてドキュメントを執筆するならば、人の一生や事件の「意味」や「解釈」を読みとって、それを軸に作品を書き上げていく姿勢をもちたいものです。そしてその際、意味なり解釈なりの象徴として作品に彩りを添えるのが、主人公の詠んだ詩、描いた絵、愛した事物、形見の品……というわけです。
『渋江抽斎』は抽斎の死後、その子孫らの生の軌跡に筆を伸ばして幕を閉じます。つまり、主人公の生きた先の未来をまで見つめる一作として完成したのでした。思うに、自分の半生を振り返ることや、亡き人物の足跡を探ることは、そこからの未来を考えるための必修的営為なのかもしれません。そして、血筋のみならず人と人の間に結ばれた関係性も、目に見えずとも連綿とつづいていくものなのではないでしょうか。そのことを念頭に置くことで初めて、自分史や伝記は輝きと多彩な深い色を得ていくのかもしれません。畢竟、人生記とは、人が生きた数だけ異なるドラマを内にもつ、ただ一篇の物語なのです。
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