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めぐる季節に文章術を学ぶ

2017年10月27日 【作家になる】

「季節感」が読者の「感応力」を刺激する

小説のなかの「季節描写」と聞いて、まず思い出すのは川端康成の『雪国』、という人は少なくないかもしれません。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」というその書き出しは、あまりにも有名です。しかし全編を通じた文脈のなかで捉えてみると、この冒頭部は、季節の描写というよりも、雪に閉ざされた土地での男の先行きを暗示する一文、と見たほうがしっくり来ます。『雪国』は海外に愛読者を多くもつ作品としても知られていますが、上記引用部は日本的季節情緒ではなく、外国語訳でも目の覚めるような演出の効いた導入部として、彼らを惹きつけているのかもしれません。

『雪国』はさておき、小説やエッセイを書く際、「季節」が読者の感覚に訴える重要な舞台装置であることは事実です。とりわけ四季を有する我が国日本の文学にあっては、多彩な色合い、空気の匂いや温度、舌の味わいまでも呼び起こすような季節の描写は、読者の感応力を刺激し、作品世界のイメージを深めるのにおおいに役立ちます。小説しかり、エッセイしかり、おのずと作品の魅力も増すわけです。上質な季節描写をものにすることは容易ではありません。けれど、本を書きたい、出版したいと夢抱くなら、しかるべき季節描写を積極的に織り交ぜて、作品に豊かな風味を加えようではありませんか。

小説家と「季節」の関係を探る

一口に季節描写といっても、エッセイと小説ではいささか考え方が異なるでしょう。またいくら味わいといったって、春だ霞だ雪だ霰(あられ)だと、小説のなかであたり一面に季節を散りばめるような不用意なことをしてはなりません。特に日本の美意識は「わび」と「さび」。盛り盛りのデコレーションが文学のシーンで好まれることはありません。加えて、「ひまわり」と「笑顔」や「枯れ葉」と「もの哀しさ」など、三文小説の手垢まみれの直喩も読み手の興趣を誘うことはありません。つまるところ季節の描写とは、物語のテーマ、登場人物、各場面や結末などを暗示するひとつの手法であるわけですが、さすがに名作のなかのそれは、ひときわ印象的な一文に仕立てられています。たとえば秋の風景。夏目漱石は『虞美人草』に次のようなシーンを描きました。

真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔ある高き身に、秋風を品よく避けて通す心細さを、秋は時雨て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。

立ち枯れの秋草が氣紛の時節を誤って、暖かき陽炎のちらつくなかに甦るのは情けない。
(『虞美人草』/『夏目漱石全集〈4〉』所収/筑摩書房/1988年)

いずれも、愛する人を長いあいだ待ちつづけた女が、その末に見捨てられ、もの思いに沈みひたすら逡巡を繰り返す姿に重ねた晩秋の風景です。

いっぽうで、冬から春を思う季節描写には、しばしば希望の明るさが暗示されます。ただし、“当たり前過ぎる”イメージの喚起ゆえ、逆に難易度があがり、ここは作家の腕の見せどころとなるでしょうか。

鰊の漁期――それは北方に住む人の胸にのみしみじみと感ぜられるなつかしい季節の一つだ。この季節になると長く地の上を領していた冬が老いる。――北風も、雪も、囲炉裏も、綿入れも、雪鞋も、等しく老いる。一片の雲のたたずまいにも、自然のもくろみと予言とを人一倍鋭敏に見て取る漁夫たちの目には、朝夕の空の模様が春めいて来た事をまざまざと思わせる。北西の風が東に回るにつれて、単色に堅く凍りついていた雲が、蒸されるようにもやもやとくずれ出して、淡いながら暖かい色の晴れ雲に変わって行く。
(有島武郎『生まれ出づる悩み』集英社/2009年)

有島武郎は、芸術家の夢を手放して漁師という“生活”を見出した青年の物語『生まれ出づる悩み』で、「漁夫」の姿を配して、明るく優しい色が煙るように印象的な早春の風景を書き上げました。

次は三島由紀夫の『金閣寺』。凝縮された一文として紡がれた季節描写は、現実以上に見るも鮮やかな効果を上げるものです。

足音も人声も、春の暮れがたの空に吸われて、音が尖ってきこえず、やわらかい円みを帯びてきこえる。
(三島由紀夫『金閣寺』新潮社/2003年)

――と、そこには花の香りも山の霞もありませんが、耳にも肌にも、まろやかな春の空気が感じられてくるような一文となっています。

つづいて挙げるのは、村上春樹の「夏」と「冬」。毎年10月になるとノーベル文学賞ネタで勝手にメディアに引っぱり出される村上氏は、当ブログ『「副詞」を捨て「比喩」を得よ!』の回でもご紹介したように、“絶品描写”を用いた比喩を多々見せてくれます。

夏の光があたかも目に見えぬ分水嶺を越えるかのようにその色あいを微かに変える頃、鼠のまわりを僅かな期間ではあるがオーラの如く包んでいたある輝きも消えた。
(村上春樹『1973年のピンボール』講談社/2004年)

十二月に入ると何日か強い風の吹く夜が続いた。ケヤキの落ち葉がベランダの目隠しのプラスチック板に打ちつけられ、辛辣な乾いた音を立てた。冷たい風が警告を発しながら裸の枝のあいだを吹き抜けていった。カラスたちの掛け合う声も、より厳しく研ぎ澄まされたものになっていった。冬が到来したのだ。
(村上春樹『1Q84 BOOK3』新潮社/2010年)

『1973年のピンボール』は初期村上作品、『1Q84』は氏の長編としては比較的新しい大ベストセラー。前者の「夏」は懐古的な切ない情感を醸していますが、後者の「冬」は、描写の対象が荒涼とした冬であることばかりが理由でなく、文体そのものが直截的でドライな感じ――とタッチの違いも見て取れます。世代でいうなら、概して旧世代の作家の文章は修飾的で湿り気を帯びがちなものですが、このように同じ作者の新旧両作を並べて参考にしてみるのもまた有益な取り組みでしょう。

エッセイの「季節」は生きた生活感覚に作用する

日常の雑事雑感を綴るエッセイにも季節の描写は不可欠です。日々の暮らしを織りなすエッセイを愛好する読者は少なくありません。作品世界に没入するのとはまた違う妙味を湛えるエッセイで描かれる風景は、ある意味でふだんの私たちの生活と地つづきです。そこに取り込まれている季節感はすなわち、私たちがふつうに感じる季節そのものでもあります。そんなふうに暮らしに密接した「季節」を教えてくれるのが、エッセイというジャンルなのかもしれません。

12月は色の消える月です。ものの終わりははっきり線を引いたり、ばっちりと鮮やかにかざったりしてきまりをつけたいのが人情です。それだのに、菊のないあとにこの花が残って咲きます。花にはちがいがありませんが、見だてのある花ではない鄙びたものです。その野暮くさい見ばえのしない花を飾るがゆえに、一年の終わりは平安におちついて無事に暮れるのではないでしょうか。山茶花があることを思うと、12月はなるほど一年の鎮めだな、とうなずけます。女の終わりも菊や紅葉と鮮やかなのもりっぱだけれど、私なら山茶花がいいとおもいます。
(幸田文『季節の手帖』平凡社/2010年)

一枝の山茶花に何を思い感じるか、それを表現するのがエッセイです。明治から平成まで、四つの時代を生きた幸田文のエッセイは、暮らしと人生に対する大切な思いを秘めつつ、美しい日本の四季を伝えてくれます。

「季節感」を磨いて“作家力”を高めよう!

「おしめども 鐘の音さへかはるかな 霜にや露の結びかふらむ」――きのうまでと違い、今朝は鐘に露を結んでその音さえ変わった――と詠い冬の訪れを告げた西行。さらに万葉の昔を紐解くまでもなく、私たち日本人はごく自然に四季の風景に情趣を見いだしてきました。その感覚を一生活者よりもう数歩前に出て磨き細やかにすることは、作家修業において大切なことに違いありません。見て、聴いて、嗅いで、触れて、味わう―――季節とはいつだって五感でとらえるもの。良質な小説を書くためにも、滋味豊かなエッセイを書くためにも、季節をとらえる鋭敏な感性を磨き、読む者の心に残る描写を作品に添えたいものです。

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