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「旅」。ただこのひと言で、ココロのなかのとある領域を掻き立てられる方もいることでしょう。日常から脱した限りある時間であり、未知と出会うための冒険である「旅」。その魅力は、いつの時代も人々を世界各国の町角へと送り出してきました。そして、創作・表現への意欲やインスピレーションと結びつく“何か”に触れられることも、旅の副次的効果のひとつです。19世紀後半のヨーロッパでは印象派の画家たちが各地を旅し、見知らぬ土地の美しい風景への歓喜を表すような明るい色彩の風景画を描いたわけですが、旅先で絵を描くということは、そもそも風景をより深く鑑賞するための格好の手段なのかもしれません。
印象派といえば、ポール・ゴーギャンが印象派の影響から脱し、独自の画風を見いだしたのはパナマやマルティークへの旅がきっかけでした。彼は「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という言葉を残していますが、狂熱の画家ならずとも、旅が本当の自分、己の原点に出会うためのものであるというのは、よくいわれることです。(って、まあ、リアルな場面で友人や同僚に「なぜ旅に出るのか?」と問われ、「自分に出会うためさ」と大真面目に答えようものなら、「あれ!? 中二……?」と微妙な空気も流れそうなものですが……)これはある意味、真理です。非日常に身を置くことは、日常の自分を客観視する絶好の機会です。我知らず積もりに積もった心の澱が取り払われ、清新な精神と眼が得られる作用が「旅」にあるのだとすれば、それはまさしく絵を描いたり詩を書いたり、あなたのクリエイティビティを発揮させるのに絶好のシチュエーションといえましょう。
旅先の景色のきれいな場所では、たいてい絵を描いている人を見かけるものです。イーゼルを立てる本腰派もいれば、コンパクトな画帳にスケッチしている人もあり、何ひとつ画材を手にせず来た者は、ああこんなところで絵を描くのもいいな……と創作意欲を刺激されもします。人はどんなに心に打たれる風景に出会ったとしても、絵を描くほどにはじっと長く向きあうことはありません。考えてみれば、これはもったいないことかもしれませんね。「ものを観るのに目をあいただけでは足りない。心の働きがなくてはならない」という画家ミレーの言葉があります。実際、ペンや画筆を手に、風景にじっくりと心を添わせ、目の前の情景と自身の内面の双方とを繰り返し繰り返し見比べ、その結果、かけがえのない時間を「絵」として記録できたとしたら、旅はどんなにか豊かになることでしょう。
画筆や鉛筆、画帳やイーゼルを持って旅に出るとなれば、おのずと心も浮き立つはずです。「いい絵を描きたい」という自然な発想が、あなたの心理に眼球とはまた別の“眼”を宿らせるに違いありません。それが新しい何かの発見につながるはずです。旅立ちの数日前になれば、いよいよ期待に胸も逸ることでしょう。ですが、旅の風景を絵に描くということは、物語のストーリーを考えるのと同じこと。ありきたりなコースやポイントを駆け足でまわるような旅では、絵も安価量産品に等しい内容に終わってしまうおそれも否めません。
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
(寺田寅彦『科学者とあたま』平凡社/2015年)
物理学者・寺田寅彦は科学者の研究態度についてこう喩えましたが、この警句は、実際の旅や描画、創作にも通じるところがありそうです。ではあらまほしき旅とはどのようなものか。「人が旅をするのは、到着するためではありません。それは旅が楽しいからなのです」というゲーテの言葉に触れてふと思うのは、一体に私たちは、目的地を目指す旅を当たり前と思い込んではいないでしょうか。利便性のよい一般的な最短往路を踏んで、到着地でのあれこれを計画するだけなら、十把一絡げのツアー旅行に過ぎません。旅は、日常という住処(すみか)を一歩出たときからはじまります。名所旧跡をただ訪ね歩くばかりでは、触れるべきものには触れられません。自由に気ままに自己流の道を行き、「自分の足」で「自分の景色」を見つけることこそ、旅本来の醍醐味といえるのではないでしょうか。
しかし絵を描くといっても、絵心はないし絵なんて描けないよ、と端から諦めている人はいませんか。待ってください。これは何も精密時計の中身を直せという話ではありませんよ。絵とは、近しく、包容的なものです。文章のない『旅の絵本』シリーズが人気の画家・絵本作家の安野光雅は、「絵」との出会いについて、「美術館で初めて外国の絵を見てから、今までに続くとんでもない刺激を受けてしまった」(安野光雅『会いたかった画家』山川出版/2016年)と述懐しています。であれば、何はさても絵に親しむことこそ大切ではないでしょうか。「我流でいい」「いつまでも続けることが大切なことだ」(同上)という安野の言葉が、たたみ掛けるようにして励ましてくれます。そう、気が向いたらでいい。絵具、絵筆、鉛筆、ペン、クレヨン、スケッチブック、ノートにメモ帳……描けるものなら何でもいい。まずは手に取って、旅支度に加えてみることをお奨めします。
それから、安野のように絵だけで“旅を書く”ことももちろんアリですが、やっぱり一筆添えなければ心許ない、と思う向きもあるかもしれません。けれどそんなときも、名文を書かねばと無駄に力むことはやめて肩の力を抜きましょう。自由気ままな旅と“力み”はいかにも不似合い、文章だって自然に心の向くまま記せばよいではありませんか。そのお手本とすべきは、あの“巨匠”以外にいないでしょう。
ローマの町で一ばん目についたのは、裸のちょうこくといろんな噴水だった。ボルゲーゼというところへいったら、裸のちょうこくがずらっとならんでいて、まるで裸行列のようだった。どうしてすっぱだかのちょうこくをならべているのかときいたら、ちょうこくをつくる人は、男や女のきれいな姿をあらわしたかったので、人間のいちばんきれいな姿は裸にならなければわからないのです。
それならきれいな姿をもった男や女はいつも裸でいればいいので、ヨーロッパでどうして裸で町を歩いてはいけないかというと、ひとにはきれいな裸ときたない裸があって、両方が裸になればきたない裸がそんをするので、きたない裸の人でも服をきればきれいにみえるので、みんなを公平にみせるために裸を禁止しているのです。きれいになるのを気にしなければ、裸になりたい人は裸になればいいので、かぜをひきやすい人は服をきればいいので、ぼくはその方がめんどうくさくなくていいと思う。
(山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』筑摩書房/1994年)
これこそ、初めて目にした光景に目を瞠る、見たまま思うままの無垢な感懐を表す見本のような文章ではありませんか。名著と名高い紀行文の一節などが頭に浮かんでいたら即振り捨てるべし。他者の作品と比較してみたり、文章のよしあしに囚われたりする必要から解かれることこそが、旅絵本・画文集創作の第一義なのですから。もちろん、何時に起きてどこへ行ってアレ見てコレ食べて美味かった……の棒読みメモ書き風の旅日記は論外ですが、旅とは「素の自分」を取り戻す絶好の機会なのですから、伸びやかに寛いだ心に浮かぶ素直な言葉を拾いあげればそれでよいのです。
子供たちは パブとよばれる 酒場に入っては いけません。
しかし、中を のぞいたり、そこに 何があるかを 見ることは ゆるされて います。
大人に あこがれて、大きくなるんですね。
(ミロスラフ・サセック/松浦弥太郎訳『ジス イズ ロンドン 復刻版』スペースシャワーネットワーク/2015年)
1950・60年代に世界各国を旅し「街」を描いたのは、チェコの絵本作家ミロスラフ・サセック。異国の文化、風物、街角の光景を、幼い子どもの純真な驚きを感じさせる鮮やかな色彩をもって描いた彼の絵本は、今も人々を魅了してやみません。サセックが旅した時代と今、街は大きく様相を異にしているでしょう。ですが、いついかなる時代でも、旅人がその気になりさえすれば、心に響く風景には出会えるはずです。そしてその姿勢と精神は、絵を描くこと、本を書くことの根本にも通じているはずです。19世紀アメリカの思想家、ラルフ・ワルド・エマーソンの言葉を借りるなら、「美しいものを見つける為に私たちは世界中を旅行するが、自らも美しいものを携えて行かねば、それは見つからない」のです。ちょっとした画材のほか、携えるべきは素直で澄明な心。そのことを胸に留めつつ、あなたも絵を描く“新しい”旅に出てみませんか。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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