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画家の余技に見る創造の源泉

2017年02月01日 【作家になる】

囚われのイメージを解き放ってくれるものとは

「小説を書くゾ!」「詩を書くゾ!」と意を決し、遮二無二一路を邁進する――ことはもちろん大切でしょう。けれども、脇目も振らずにひとつのものを見つづけた結果、気づかぬうちに世界が狭くなってしまった、という事態に至ることもままあります。創作とは創造力・想像力を自由闊達に揮うものであるはずなのに、いつのまにか自分が描こうとする世界に囚われてしまう……。それは創作を志す者誰もがハマりかねない陥穽(かんせい)です。そんなとき、延々と内省ループする思考回路を洗い清め、靄にかすむ視界を開いてくれるのは、もしかしたらそれは、絵筆を揮う画家たちかもしれません。

名声の裏で苦悩した画家の多彩な余技

パリに渡った日本人でもっとも成功した画家といえば、レオナール・フジタこと藤田嗣治の名がまず挙がるでしょう。芸術家の卵たちを数知れず呑み込んだこの街で、特徴的なオカッパ頭と丸メガネ、歯ブラシの毛のような口髭と、芸術の都においてさえ人々を唖然とさせる強烈な自己演出で頭角を現した藤田は、ある面で日本人離れした実行力と社交性のもち主であったかもしれません。が、いずれにせよそれらは、彼にとっては得るべき評価を得る多少の助けになった――という程度の特性に過ぎなかったのかもしれません。ほどなく、乳白色の肌の裸婦像で絶賛を浴び、藤田はたちまちフランス画壇の寵児となります。

ある日ふと考えた。春信・歌麿の画に現れる、僅かに脚部の一部分とか膝の辺りの小部分を覗かせて、あくまでも肌の実感を描いているのだという点に思い当たり、初めて肌という最も美しいマチエールを表現してみんと決意した。
(藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔』講談社/2005年)

藤田の絵の代名詞ともなった「乳白色」の秘密は、近年の調査で“ベビーパウダー”であることがわかっていますが、この一文には、画業に懸ける藤田の覚悟と創意が窺えます。不動の決意を貫いた藤田は、彼自身の独創性と不断の努力によって画家としての名声を得たといえます。しかし、画家が絵を描き、詩人が詩語を組み立て、登山家が山に登るのは、魂を突き動かすごとき“天命”が所以であって、“楽しいから”では決してありません。藤田の死後発見されたノートのなかには、「日本に生まれて祖国に愛されず、又フランスに帰化してもフランス人としても待遇も受けず、(中略)迷路の中に一生を終る薄命画家だった」(同上)という一節が残されていました。画家としてあれほどの成功を収めた藤田の無念を綴るこの言葉には、芸術の道の無情と人間の哀切を思わずにいられません。

絵具屋の見本の色のありつたけの、枝状、花状、果実状の珊瑚の林は、光る砂上に飾られて、蝶々魚(アンラーガーサー)みのかさご(ハネユー)つのだし(ホタテイー)等と言ふ外人の様な魚族、名古屋城の金のシヤチホコ其儘(そのまま)のアバシ、背黒赤腹のグルクン、赤と黄の棒縞の股引をはいた、カタカシ等の熱帯魚は、爽涼夢の如き龍宮城のレビユーガールの様に其間を踊つて居る。
(『地を泳ぐ』平凡社/2014年)

藤田の創造力は絵画のみならず服・家具・インテリア・日用雑貨、果てはドールハウスや額縁……とあらゆる方面で発揮され、“藤田の手しごと”として大変有名です。画業が“天命”であるならば、「手しごと」はまさに心躍る余技であったのでしょう。その仕事ぶりは林洋子著『藤田嗣治 手しごとの家』(集英社/2009年)に詳しいですが、一心不乱にミシンを踏み、木目を合わせる藤田の姿は、子どものように伸び伸びとした生気に溢れているのでした。いっぽう日記には、鮮やかな色彩や土地の濃密な匂いを写し取った旅路の一場面など、鋭敏な感覚と曇りのない眼が息づいています。それらの余技に、この名高い画家がどれほど慰めと喜びを見出したことか、想像してあまりあります。

「画壇の仙人」が到達した“日々余技”の境地

愚直なまでに画業に取り組んだ画家・熊谷守一 。その生き方ゆえに、富裕な家柄に生まれながら後半生はただならぬ窮乏生活を送っています。守一の絵はフォーヴィスムが出発点ではありましたが、小さな家の小さな庭を眺める暮らしのなかで、やがて簡潔な表現の独自の画風に到達します。猫や虫、鳥、野の花など身近な命をモティーフとした絵は、デフォルメされているにも関わらず、素朴な生命感と画家の眼差しの優しさを湛え、観る者を惹きつけてやみません。

誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、いちばん楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません。
(熊谷守一『へたも絵のうち』平凡社/2000年)

暑い時期には庭にござを敷いて、腰に下げたスケッチブックに、あたりの草花や蝸牛や蛙や蟻や虫などをスケッチしました。疲れるとそこにごろりと横になって眠ったものです。
(『蒼蠅』新装改訂版/求龍堂/2004年)

守一は、芸術家として一切の妥協をせず長い貧乏生活を送るなかで、いつしかその心を解き放ち、「絵」さえも余技の域に抱えてしまったかのようです。また、晩年多く書かれた書は、もしかしたら、守一の余技の真骨頂と呼べるかもしれません。
ちなみにそれら絵も書も、守一がその庭でアリを眺めながら終生暮らした住居跡地に建つ、西武池袋線椎名町駅にほど近い熊谷守一美術館で観ることができます。

坊さんの字で、白隠のはわるいとは思わないけれど、良寛は、これはわたしが勝手に乞食坊主だと思っていたのに、字を見たらどこの紳士かというようだったんでね。つまらなかった。
(同)

まるで自然の一部になったかのように、“雨”や“風”を独自の筆致で表現した守一の書は、観ていると、思いもよらなかった文字の概念を教え諭されている気持ちさえしてきます。絵を描くことも、書を書くことも、また、物語や詩をつくることも、創造するということは心を自由にすることなんだと気づかされるような、“無心”が宿る余技です。

もしあなたが、「小説を書くゾ!」「詩を書くゾ!」と作家になる日を夢みながらも、その意気込みの前でスランプに陥っているならば、こうした偉大な画家たちの余技との接し方にヒントを求めてみましょう。それは、創作の形はひとつではない、創造力を豊かに養う方法は無数にある――のだと、柔軟で奔放な創作に向き合う精神のありかたを教えてくれるのではないでしょうか。

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