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いつの世も「社会」というのはさまざまな問題を抱えているもの。民衆が社会のあり方や政治になす術なく翻弄される図式は、むかしもいまも変わりません。また、民衆のなかに存在する問題は必ずや民衆内部から生じてくるという事実を裏づけるように、身近な地域社会にも絶えず重大な問題が生起します。
そんな世にあって、本を書くことを生業としている文筆家たちが、大小多様な社会問題を扱うことは当然の成り行きといえましょう。しかし彼らの筆は、おのずと「社会」周辺を巡るのでしょうか。それとも作家が意図して?
社会に対する確かで鋭い目線を備えれば、すなわち作家になれるというわけではありません。が、少なくとも、その視座を欠いているようでは、作家として身を立てようにも天賦の才これ一本に一か八かを委ねるほかないのかもしれません。あなたは、いい目が出る自信がおありですか? この問いにささと頷けないのであれば、では、まずは「社会」というものに目を向けて、そこに内在する問題をテーマに文筆活動に取り組んでみましょう。そうすることで、あなたらしい作家道のビルドアップができるはずです。
おいおい、作家になりたいからといって、やっとこさ社会に目を向けるようじゃ、目的と手段が逆じゃないか――と手厳しい意見もあるでしょう。しかし「社会」とは、そんなに浅く手ぬるい題材ではないようです。ひとたび近づこうものなら、あなたの心はその触手に搦め取られること間違いありません。ということで今回は、搦め取られた先人たち――己の信念をかけ全霊で社会問題に取り組んだ著述家とその作品――に筋金入りの姿勢を学んでみたいます。
『土と文明』の名著を残したV・G・カーターとT・デールは、その中で「人類は地表をわたって進み、その足跡に荒野を残した」と一言で要約している。ナイル川流域、メソポタミア、インダス河口、黄河流域の古代文明の発祥地は、現在すべて砂漠や荒野である。さらに、幾多の文明の花開いた北イラク、シリア、レバノン、パレスチナ、チュニジア、クレタ、ギリシャ、イタリア、シチリア、メキシコ、ペルー……、どこを訪ねても、地表を剥ぎ取られた岩だらけの荒涼とした光景が続く。これらの光景は、文明の名のもとにいかに激しい土壌の収奪が続いたかを、何より雄弁に物語っている。
(石弘之『地球環境報告』岩波書店/1988年)
環境ジャーナリストの石弘之が『地球環境報告』を上梓したのは1988年。バイオエタノール(バイオ燃料)が注目され、オゾン層破壊が国際問題として浮上しはじめたころのことです。1988年といえば日本社会はバブル景気が真っ盛り、一方で地球環境は加速的に異常現象に浸食されはじめていました。しかし環境問題・環境対策は、他の多くの社会問題と同様に一方向的に考えることはできません。
たとえばバイオエタノールひとつとっても、大気を汚染しないこの燃料で満タン分車を走らせることはつまり、人ひとりが一年間に食べる穀物量を費やすことと同じ――という具合です。アフリカやアジアにいまだ根深い飢餓を残しておきながら、バイオエタノール製造に大量の穀物を消費することは有益でしょうか? 自然環境を守る穀物燃料バイオエタノールを得るために、山を切り崩し畑をつくり自然破壊が行われることは有益でしょうか? そして有益なのだとすれば、それは誰にとって? 不利益と判断するならば、それはどの人にとって? 問題は複雑です。個々の問題もさることながら、このような深刻なジレンマを解決しいかに環境問題に臨んでいくかという「取り組み方」自体もまた、ひとつの大きな問題として屹立しているのです。
石弘之がみずからの足で地球環境の実態を見て仔細に綴ったこの迫真のルポルタージュは、人類が初めて接する、しかし絶対的に乗り越えねばならぬいくつも課題を、読む者の骨身にひしひしとねじ込んでくるまさしくバイブル的な一冊です。私たち人間誰もが願うの安住の地「家」とは、建屋のみならず、その土地、その国、その星の環境すべてであるはず。それは、文筆家として文章を世に問おうとする者なら、相対するに何ら不足のない、弥がうえにも深い理解が求められるテーマです。
私は、私の舌と胃袋のありようが気にくわなくなったのだ。長年の飽食に慣れ、わがまま放題で、忘れっぽく、気力に欠け、万事に無感動気味の、だらりぶら下がった、舌と胃袋。だから、こいつらを異境に運び、ぎちぎりといじめてみたくなったのだ。
(辺見庸『もの食う人びと』角川書店/1997年)
『もの食う人びと』は、共同通信社の記者であった辺見庸が、紛争地帯、辺境の地、難民キャンプ、そして核に侵された土地……に赴き、その極限下の“食”をみずから食して取材した記録です。死を待つばかりの枯れ枝のような少女。救う手立てのない目の前の現実。生きるための「食う」という行為は、生の不平等なありさまを残酷なまでに浮かび上がらせます。調理後10分経ったハンバーガーは捨てる「飽食ニッポン」からはかけ離れた実態が世界に存在すると知ってはいても、多くの人はその事実に進んで目を向けようとはしません。
旅を終えた辺見。空っぽな心境にあってふと口を突いて出たのは自分の仕事に対する疑問でした。「救わない」のはジャーナリズムも同じ――。沈痛な響きを帯びた言葉が、著者自身の心のなかの未開の一隅を照らした瞬間でした。
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬え
砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐黍はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで
(『死者にことばをあてがえ』/『眼の海』所収/毎日新聞社/2011年)
辺見には「詩人」というもうひとつの顔があります。東日本大震災に見舞われた宮城県石巻市出身で、自身も友人らを失った辺見ではありますが、この激甚なる災禍を前に直截的な悲嘆や鎮魂の言葉を並べることはしません。「悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。それを今も探している」と述べ、辺見は詩集『眼の海』を出版しました。傷みに耐える心が、救いの言葉を編む詩集です。
テロ撲滅などという恣意的なスローガンのもとに大国の身勝手な犠牲にされているアラブやイスラーム世界の民衆を、〈彼ら〉と擁護するのではなく、〈わたしたち〉と呼びかけて励ますことのできるような欧米文化人がはたして何人いただろうか。そう呼びかけながら、同じ文章の中で、テロ事件による衝撃と悲しみをニューヨーク市民として分かち合うことのできるような人物が他にいただろうか。それを可能にさせているのは、けっしてどこか一つのところに帰属することがない彼自身の在り方である。(訳者あとがきより)
(エドワード・サイード著・中野真紀子訳『戦争とプロパガンダ』みすず書房/2002年)
パレスチナに生まれ、アメリカで教育を受けたエドワード・サイードは、終生、蹂躙される祖国の擁護者でありつづけました。アメリカとイスラエルによる、破壊・殺戮行為を正当化する戦争のプロパガンダと偽装を抉り出し、世界が何を考え何をなすべきか問うことに全力を傾けたのでした。祖国を離れて生きなければならない人々を救うためには何が必要か。それは断じて軍事的対抗措置ではない、とサイードは言います。それは、開けたアイデンティティー、宗教や民族や土地だけを所以とするものではない、広いアイデンティティーなのだと。
祖国の実情を知るサイードの主張の奥には、ひとつの痛切な思いが感じられます。テロは断じて許されない。しかし、テロに理由があることも考えなくてはいけない――。『戦争とプロパガンダ』で発せられるサイードの問いは、重く厳しく、戦争から離れたところにいるように思う日本人であっても、避けては通れないものです。『戦争とプロパガンダ』は、戦争の普遍的な姿と現代世界の成り立ちの構図を浮き彫りにする、壮絶な発言者による畢生の作品なのです。
世の中のことがすべて理解できれば、すべての問題を解く道筋が見えてくるほど社会は単純ではありません。とはいえ小説家であれエッセイストであれ、もの書きになりたいと心に期するならば、みずからに無知・無関心を許して平気でいてはなりません。世の中には理解するにも難しい、また複雑にして面妖な話が溢れていますが、ムズカしそう……と安易に背を向けず、紙を前にペンを手に理解に努める姿勢をもちたいものです。サイードの説く「開けたアイデンティティー」とは、発信者・創作者にも重要な資質であり、そうした姿勢をもってこそ、アイデンティティーはさらに豊かな広がりを得るのですから。
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