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「春はあけぼの……」と口ずさめば、たちまち高校の古文のじいちゃん・ばあちゃん先生の姿が瞼に浮かんでくるもの。清少納言によるあまりにも有名な平安中期の随筆本『枕草子』です。作者にしろ作品にしろ、紫式部の『源氏物語』と比較されることが多いのですが、端的にいえば、『源氏物語』の「もののあはれ」(当ブログ記事参照:「書けないときは、読むことに重点を置いてみる〜源氏物語編」)に対して、『枕草子』は「をかし」の日本的情趣と美を開示してみせた一作といえましょう。
間もなく二時代前となる昭和の世には、「いとをかし」が流行語のように流行った高校があったとかなかったとかいう噂ですが、「をかし」とはすなわち現代でいう「おかしい」(可笑しい)に繋がるもの。じゃあ『枕草子』ってユーモアエッセイ? などと無邪気に問うてはいけません。『枕草子』は、晴れやかな情緒と知的興趣を具えた日本最古(「世界最古」の説もある)の随筆です。古いばかりではなく、随筆の真髄とも呼ぶべき濃密なエッセンスで溢れかえっているのです。
学問的なお話を少し交えると、国文学者・池田亀鑑は『枕草子』に収められた随筆を三類(「類聚章段」「随想章段」「回想章段」)に分類しました。また、作品そのものについては、実際のところ清少納言によるオリジナルかどうかは確認されておらず、三巻本やら能因本やらの写本によって現代に伝えられるのみです。なのですが、この際そうした作品にまつわる蘊蓄や概要は置いておきましょう。清少納言の作家として、人間としてのユニークさは、そうした後付けの話に何ら影響されるものではないからです。作家志望者は、奇跡のように現代に伝えられたこの名随筆を、ただ深く、自由に、味わえばよいのです。
『枕草子』が有する随筆の真髄とは、「をかし」の理念――美意識・美学・感性・趣味嗜好です。そのひとつの最高峰を、この作品は示しています。基本的形式は、清少納言みずからがお題を掲げ、その美意識、美学、感性、趣味嗜好に適うものを挙げて応えていくという簡潔なもの。簡潔であるがゆえに、「をかし」の美的感性と鋭敏な嗜好性が冴え冴えと光ります。清少納言は、彼女が仕えた中宮定子から紙を下賜されたことがきっかけで、この随筆を書きはじめたといいます。すると『枕草子』は、平安貴族社会に現れた才気溢れる女官の、美意識や感性や知性を動員した日々の手すさびであったのかもしれません。
清少納言は、「うつくしきもの」「すさまじきもの」といったお題に、好きなものをつらつらと挙げて“いとをかしき”風情をつくっていきました。ただここで、作家になりたい、エッセイストになりたいと志望するあなた、「好きなもの挙げる」行為を容易な作業と考える愚を犯してはなりません。
よくよく考えてみましょう。「好きなもの」とは、否応なく書き手の内面の多くを物語る代物なのです。それに加え、読み手のセンスのはるか上を行きつつ、その上で新鮮な共感を得るような「もの」を挙げてみせる必要があるのです。おいそれとできることではありません。たとえば「かわいいもの」として、柴犬の赤ちゃん、猫の肉球、○○県のゆるキャラ……などと挙げていって、果たしてその感性に嘆称のどよめきが起きるでしょうか。いえ、断じて起きません。清少納言はこう書きました。
二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひくる道に、いと小さきちりのありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる。
(2,3歳ほどの子どもが、急いで這ってくる途中、ごく小さなごみを目ざとく見つけて、かわいらしい指でつまんで大人に見せる様子。)
蓮の浮葉のいとちひさきを、池より取りあげたる。
(池から取り上げた、とても小さな蓮の浮葉。)
(原文:清少納言著・池田亀鑑校訂『枕草子』岩波書店/1962年)
千年という時の隔たりなどにまったく関わりない、大人の感性、知性が捉えた「うつくしきもの(かわいらしいもの)」、「好きなもの」。そこに、あなた自身も「をかし」の美的世界を感知できたとしたら、しめたもの。逆に猫の肉球には共感するものの、この記述にぽかんと口を開けてしまったとしたら、いささか重症といえるかもしれません。すぐさま『枕草子』現代語訳版、もしくはその入門編として酒井順子氏の『枕草子REMIX』(新潮社/2007年)あたりの一読をお勧めします。
平安の世の才媛が指南するのは、随筆のなかに息づく美的理念。昨今では薄味に慣れてしまった感もありますが、たとえば、名随筆家と謳われた吉田健一の著述にはこれがありました。無論エッセイストにはそれぞれ持ち味があり、なんでもかんでも「をかし」で行け! 「をかし」で飛べ! と言っているわけではありません。けれど、確固とした美意識や“もの”を篩(ふるい)にかける感性なしに、優れたエッセイなど書けるはずはなく、そのことに目を啓く絶対的必要があります。真に作家になりたいと志抱く者が、読み、感じ、学ぶべき真髄をもつ希少な随筆、それが『枕草子』なのです。とにもかくにも、まずはご一読を――。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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