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アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者ヘンリー・デヴィッド・ソローが、文明社会から退いて森での自給自足の暮らしを実践したのは19世紀半ばのこと(『ウォールデン 森の生活』小学館/2016年)。同じくアメリカの生物学者レイチェル・カーソンが、『沈黙の春』(新潮社/1974年)で初めて環境破壊に警鐘を鳴らしたのは1962年(いずれも当ブログ記事『人と自然を洞察するエッセイには未来が映る』参照)。それから長い長い時間が過ぎ、我々人類はこうした偉大な先人の言葉に啓蒙を促されてきたのだから、世界・地球はゆっくりと甦ってくるのが当然ではなかったか――と思いきや、ご存じのとおりそんなことはまったくなく、それどころか破壊に拍車がかかっているというこの哀しき現実! 人類の底なしの愚かさには驚かずにはいられません。なぜ誰も、何も、止められないのでしょう。このままでは回帰不能点を越える日も遠くはありません。否、すでに越えてしまっているといえるのかもしれません。ただそれでも、現状の加速の度合いを抑え、悪化のスピードを遅らせることだけはしたい。これは切実な、致命的とさえいえる問題です。本を書きたい、作家になりたいという者なら、たとえ娯楽に耽るエンタメ作品を書くのだとしても、その娯楽を求める現代人の心に影を落とすこうした環境問題に無関心であってはならないでしょう。
熊が山から里に下りてきて農作物や家畜が被害に遭い、住民が怯え、罠にかかった、射殺された――といった報道を見ないシーズンはありません。得てしてこうしたニュースの終わりには、住民もこれでホッとひと安心といった空気が醸し出されます。確かに確かに、実害に遭われた方としての感想はそのとおりでしょう。が、報道する側までその被害者一辺倒の態度をとるのは、何かおかしくはないでしょうか。だって、熊が山を下りたのは物見遊山でも悪意あってのことでもありません。人間がなした森林伐採により生息領域を否応なく奪われ、人類の活動に起因する自然変動により餌もなくなった結果、生きる術を探して山を下りざるを得なかったのです。実際に熊が目の前に出たならともかく、それを報道する側、さらにはそれを眺めるだけの立場にある者は、熊が出た! 危険だ! 怖ろしい! と騒ぎ立てる前に、己の種が何十年何百年と犯してきたこうした大問題を直視して、人間と動物ほかすべての生物環境との新たな共存を図るための、真剣な話し合いをはじめる契機とすべきなのではないでしょうか。
森の中には平らなところが一つもありません。道もまっすぐではないですよね。だから、森を歩くときは、実は一歩一歩、常に判断を繰り返している。そうやって自然の中で遊びながら五感や判断力が培われていくのです。それは都会でゲームだけしていては育たないものかもしれません
地球の未来を守るために何としても育てていかなければならないのは、聡明で逞しく、自然を尊ぶ心をもった子どもたちです。しかし、状況は控え目にいってもどうも芳しくない様子。上掲の記事中には、もう何十年も前にニコルさんは「日本の森で絶滅した動物がいる。それは人間の子どもだ」と書いている――とも綴られています。日本の自然が一番素晴らしいといって、この国に根を下ろした異国の作家C.W.ニコル。彼のこの言葉をまずは重く受け止めて、私たちは未来を考える必要があるでしょう。
C.W.ニコルは、自分を取り巻く社会と現実に押し潰されそうになった少年を主人公に、一冊の本を書きました。心を閉ざした少年を甦らせていくのは、ひとりの老人と“森”。『魂のレッスン―ぼくとモーガン先生の日々』(C.W.ニコル著・森洋子訳/日本放送出版協会/2004年)の主人公、傷ついた孤独な少年佑介に充分向き合うことができない両親は、自然豊かな長野に住む祖父母に彼を託します。そんな佑介が森で出会ったのが、森を愛し自然を尊ぶウェールズ人のモーガンさんでした。物語は10歳の佑介がモーガンさんと出会い、その後別れるまでの10年間の濃密な心の交流を丹念に辿ります。モーガンさんを教師に、森を教室にした学校で、佑介は心優しく逞しく成長していくのです。
モーガンさんの教えとはすなわち森の教えであり、自然と寄り添って生きていくための人間の健全なありかたでした。人里に熊が下りてくる話も、我が国の不見識な報道とは180度態度が異なり、本作品ではとても印象的に描かれています。森へ入ったモーガンさんと佑介が子連れの熊に出会う場面。モーガンさんは「静かに」と佑介に囁き、「お母さん、ぼくですよ。こんにちは。友達と一緒。心配しないで」と声をかけます。さらには、「熊」とひと言聞けば騒ぐまくる村人には秘密にするようにと佑介に念を押すのです。熊が人里に下りる理由をすでに理解していた佑介は、モーガンさんとのこの堅い「男の約束」を守りました。静謐な森のこの情景は、果たして現実ではあり得ないファンタジーなのでしょうか。人間も自然のごく一部と捉えた謙虚な佇まいと見ることはできないのでしょうか。
森にいる子どもたちのようすを見るとすぐに分かりますよ。表情が豊かになって、無邪気に笑うようになります。森のことをよく知るお兄さんのようなインストラクターが一緒にいるので、彼らを信頼して耳を傾け、森の中で小さな発見をしていく。そのうち、だれかが困っていればさっと手を差し伸べるような関係が自然に生まれていきます
(同上)
リアルな自然を遠ざけるいっぽうで、好みの形で取り入れて暮らす現代人は、己があたかもそれを制御しているかのように、自分が自然の一部であることを忘れがちです。自然と触れ合い呼吸を合わせる方法に至っては、すでに本能すら失い、思い出せもしなくなっているかもしれません。けれどそれでいて、自然の一部であるはずの人間が自然に背を向けて、文明化、IT化と遮二無二ひた走るばかりでは、取り返しのつかない弊害が生じると多く人たちが理解はしているのです。このままでは破綻必至だと。2015年9月に国連サミットにおいて全会一致で採択されたSDGs(エスディージーズ:持続可能な開発目標)に、環境の持続可能性の確保が盛り込まれたのは、現代人が見せたせめてもの良識、賢明さといえるかもしれません。近年、企業活動を語る上で「SDGs」という言葉が流行語のようになっているのも、建前的なところが多分にあるにせよ決して悪い流れではないでしょう。
あなたが本を書こうと思うなら、世に作品を送り出そうと思うなら、本が出てそれを読者が手に取る未来を思い描いているはずです。そのもう少し先を望むなら、読者に何がしかの影響を与え、作用し、あなたの作品がために未来が少しだけ変化していることも視野に入っているかもしれません。作品を記すということは、己の存在意義を世に声高に叫ぶことにも似ていますが、単純な承認欲求の衝動と大きく異なるのは、未来を(善き方向に)変化させることができるんじゃないかという「願い」が込められているかどうかです。善き方向というのは、何も大袈裟なものではなく、スリルや驚きで読者を楽しませたり、展開の妙で感動させたりと、読み手に捧げる作家としての精一杯のおもてなし、そしてそれが広く社会に波及する流れです。作家とはそうした未来を見ながら作品を創りつづけるものではないでしょうか。ゆえに、本を書きたいと真に志す人々は思い描く必要があるでしょう。あなたがいま生きる時間軸の延長にきちんと未来が存在することが、あなた自身の作品にとっても絶対的に必要であるということを。そしてそのことを、未来を形づくる者に向けて直截に作品上で訴えたっていいのです。それは、あなたの描く作品を未来に存在させるために、あなたの作品でもって未来を紡ぎ出す真っ向勝負のチャレンジ。『魂のレッスン―ぼくとモーガン先生の日々』でいうならば、「書く」と決めたあなたはモーガンさんであり、森。そうして読者に、未来を担う子どもたちに、本当に大事なことを伝えていくのです。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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